神道国際学会会報:神道フォーラム掲載
読者からのお便り

森の保全に叡智の結集を!

森林への関心が特に最近高まり、このことは、まさに日本人が本来の生気をとりもどしつつあることの証左ではなかろうかと、地方都市に住んでいて、つくづく思う。
  私は、以前から、日本の外国材の輸入過多は、まったく神意に叶わぬ暴挙であると考えている。もし、日本でいわゆる平和部隊とでもいうべき人間集団が形成されれば(ボランティアというかたちで、すでに一部実現しているが)、わが国の山林資源の保全のみならず、そのことは全人類にとって、天然資源の真の活用にもつながり、天津神、国津神、八百万の神たちが、共々によみし給うところと、確く信ずる。
  神道国際学会が3月に開催したセミナー「森に棲む神々」に参加し、一流の諸講師の研究成果発表を拝聴したあと、帰路の夜行バスの中で考えたことの一端を記しておきたいと思い、短文をしたためさせていただいた次第である。
  この広い人類社会を守護し給う神々の厚きご守護に、あらためて敬神の念を新たにし、日常生活の行動規範としたいと願っている。
(鳥取・筧邦麿・68歳・広葉樹文化協会会員)

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鎮守の森の音文化

  大凡西洋諸国の町並みを想像しますと、中心部には教会がありその鐘の音が高らかに鳴り響く光景が、印象的に思い浮かべられます。教会の鐘は、複数に組まれ音階が付けられますと、カリヨンと言われる楽器になります。西洋の人達にとって、鐘の音は正に歴史と共に鳴り響いて来た、心の拠り所でもあり、音楽でもあると言えるでしょう。
  一方、日本の神社では、拝殿に参拝者が揺らす鈴があり、また巫女が神楽を舞う時や、七五三祭などで稚児を清める際の鈴が、清々しくシャラシュラと響いています。これらの鈴の音は、鎮守の森の穏やかで安らいだ雰囲気を損なうことなく響き、古来日本人の耳に慣れ親しんで来ましたが、しかし教会の鐘のように音楽を奏でる楽音としては発達しませんでした。
  では、日本の宗教に関わる音楽としては何があるかと言うと、雅楽があり、鎮守の森において祭りの雰囲気を醸し出しています。鎮守の森には、風にそよぐ木の葉のざわめきや、季節ごとの鳥や虫の声、或いは御手洗川のせせらぎなど様々な音が聞かれますが、雅楽はこれらの音に溶け合って響いています。
  前述した教会の鐘の音は、鋭く直線的な感じがします。これはやはり神社の鈴の音とは全く異なるもので、鎮守の森の音環境には溶け込まないのかもしれません。例えば、弥生時代に祭りで使われていた銅鐸は、教会の鐘の音に似てカンカンと響いていましたが、やがてそれは音を出さない装飾的な祭具になって行き、最終的には使われなくなってしまいました。移入元の中国では、教会の鐘と同じく音階をもった編鐘と言われる楽器にもなりました。
  さて、雅楽の篳篥や笛においては、音程や音量等で不安定な動きを伴う、躍動の感じられる音や、自然に速くなって行くテンポ感など、様々な要素において動的な変化が見られ、それらは奏者の感覚によって形成されていると言えます。又、笙の音は、うなりを含む不協和な響きを持っています。
  これは、西洋音楽における、五線譜と言う言わば設計図を基に、正確且つ整然と形作られる、というようなものではありません。更に言うならば、理論を基に全体が無機的に構築されると言うものではなく、個々の奏者の音楽的感性のままに言わば成り行き的に生じている、とも言えるでしょう。これは、第三者が客観的に把握出来るものではありません。
  ですから、このような雅楽の音は、自然界の一瞬たりとも留まらない生命活動において躍動的に発せられる様々な音と、相通じるものがあると言えるのかも知れません。やはり、自然そのものに神を感じる日本人の心においては、決して音も例外ではなく、祭祀で用いられる音も生を感じる動的なものでなければならず、又鎮守の森の自然環境を損なうものであってはならないと言えるでしょう。
(埼玉・石橋和彦・神職)

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