神道勉強会葦の会が國参拝
東京で毎月一回神道について勉強している神道勉強会葦の会では、4月から、古代から現代に到る神道全般をテーマとして取り上げている。大祓詞3回、皇室と記紀の成立2回による前半「古代編」が7月までに終了。8月から後半の「現代編」に入った。7月例会では、記紀の成立についての現在の学問的見解、批判的意見、信仰の書としての記紀等、多角的な関係諸本の紹介を中心に勉強。
8月は季節がら、靖国神社問題を、宗教・外交問題の両面から取り上げ、終戦記念日の8月15日には、靖国神社参拝を行った。
東大の神社・神道研究会のメンバーも合流し、大鳥居で集合した総勢ざっと30名。普段の静寂とはまったく違った人の波にもまれて正午に拝殿前に整列。それまで騒然としていた境内では、誰いうともなく、参拝者全員が黙祷した。戦後生まれの多い葦の会会員には感動的な一分間だった。
東大に新設された神社・神道研究会に応援メッセージ
〔その一〕
東京大学に「神社・神道研究会」を立ち上げられた江端さんの記事を拝見し、江端さんの神道にたいする考えとそれを実践に移された努力に敬意を表するとともに、今後の活動に大いに期待しています。
優秀な若い人達が種々の活動や研究会を通して、「記紀」や古典のもつ意義や古式を継承していくことの必要性を探求されて、後輩たちの良き影響者になっていただくことを切望しています。
伊勢神宮に参拝したことのない人達が多くなりつつある今日、「日本人だから当然」「なんとなく解る」また「心では解る」ではなく、言葉をもって納得を得る理論と実践を真摯に学んでいく必要性を痛感しております。(江東区・田中正博)
〔その二〕
東大の五月祭で、偶然、神社・神道研究会のノボリをみつけ、さっそく講演会に参加しました。母校にこうした会が生まれたことを喜び、すくすくと成長されることを期待しています。 (SU)
南部神楽の夏季講座に参加して
仙台市内から1時間程の山あいに本拠地をかまえる民族歌舞団「ほうねん座」。ここで毎年開催している夏の講座に友人と2人で参加した。今年は8月18・19日の2日間である。参加者は30名程で幼稚園の若い職員を始め学校の先生や学生とにぎやかな顔ぶれ。
講座は南部神楽(※)・太鼓・民謡の3コースがあり、我々は南部神楽を習った。初日は午後1時から座長の挨拶で始まった。3コースの説明と実演があり、それだけでも見ごたえがあった。神楽のダイナミックな舞いに、一体覚えられるのだろうかと不安になったが、順々にわかり易く指導されるうち、その日の終了時頃には、半分程マスターできた。
この日は前日までの猛暑もやわらぎ、涼しい一日でほどよい汗を近くの秋保温泉で流し、心身の疲れをいやすことができた。夜に行われた交流会は座員のミニ公演、参加者の「語り」などで、さらに盛り上がった。
2日目は、昨日、歳がいもなく張り切ったせいか膝痛に悩まされ、充分に踊れず、悔しい思いをしながら、見学中心になった。
他の参加者たちは熱心に舞いおどり、とうとう最後まで踊りきった彼等は輝いていた。そしてここまで汗だくになりながら指導して下さった座員の姿が尊いものに思えた。久しぶりに触れた純朴な人間のふれあいを感じた2日間だった。
(佐々木 陽子)
※南部神楽=宮城県北部から岩手県南部に分布する神楽の系統。古くは修験者が踊っていたものが明治になって民衆も踊るようになった。このとき娯楽性のある詠儀神楽が加わったといわれる。儀式性よりも娯楽色が強く、衣装の色彩も派手なほうといわれている。直径2尺以上の桶胴太鼓と手平鉦、笛によって囃子が構成されている。
雅楽の自然観
雅楽には、五線譜のような楽譜はありません。
ではどのようにして、曲がつたえられるのかと言いますと、楽器の演奏が、人の声を使って歌にして表現されることにより、伝承されて行きます。つまり、楽曲の情報は、奏者の音楽的感性から、感性へと、直に歌い継がれて行きますので、そこに、形あるものとして客観的に表された楽譜は、必要ないと言えます。
この雅楽の演奏が、歌に表されたものは、唱歌と言われ、特に詩的な内容は持たず、意味もなく唯“トオー・ラアー・ロオ”等と、歌われます。
しかし、実際に声に出して歌ってみると、一つ一つの言葉の持つ音のニュアンスがそれぞれの音の高さや、長さや、楽器の音色等に、何となく合っているように感じられ、記憶し易いようになっています。
この唱歌は、母音を主体にして、一音々が、長く伸ばされますが、それは、お腹からの息の勢いによって、自然に発せられています。たとえば、日本人が何かに感動した時に発する
“ オー”や、“アー”等の声や、或いはお祭りにおける警蹕の、“オー”と発声される、自然発生的な声では、人の感性が、直接音の形になって現れる自由な動きを持っていますが、雅楽の唱歌の音も、これと同じように、主観的に形作られると言えるでしょう。
ですから、この母音の自由な動きによって、雅楽独特の音程や、音量等における不安定で、滑らかに変化する音の流れが、奏者の音楽的感性のままに、自在に表現できるのです。
そして、この母音の音は、音響波形的には、自然の音に似通っているとされています。つまり、母音の声によって現される雅楽の音は、結局自然の音に似通っているとも、解釈されます。
ですから、日頃、雅楽が、鎮守の森の豊かな自然環境の中で奏され、周囲の風や、鳥や、虫等の様々な自然の音と、違和感なく融和して響いていることの理由が、ここにあるのかも知れません。
「源氏物語」には、鳥や、虫や、風や、波等の自然の音と、琴や、笛や、篳篥等の楽音が、互いに響き合うような関係を持って、音の世界が、描かれていますが、日本人は、太古より、自然の音と、人為的な楽音を区別なく意識し、自然生命との音による対話を、楽しんで来たと言えるのかも知れません。
(佐賀・稲荷神社禰宜 石橋和彦)
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