第18号 11月15日刊行 神道国際学会会報:神道フォーラム掲載

宗際・学際・人際

賀 陽 濟 氏

(田無神社宮司・精神科医・元東京大学客員教授)


海外で神道と精神医学をレクチャーする

あらゆる文化の古層にある原初信仰の意識
「その深いところでこそ世界中は握手できる」

 数年来、カナダのブリティッシュ・コロンビア大学(バンクーバー市)をはじめ海外の学術機関などで精神医学や神道思想の講義を担当。あわせて宗教儀礼を介して各国宗教者との交流も続けている。神職にして精神科医。二つの使命により、現代社会の抱える諸問題に正面から立ち向かう。「ご縁があってやるからには、中途半端でなく全力を傾けたい」という賀陽氏に、海外での活動と交流、思いを語ってもらった。

 私は、地球ガイアが今、本当に危ないと思っています。意識として必要なのは、原初的な信仰の大切さですね。神道を宣教しようという気は全然ない。プライマリーな信仰に宿っているもの――それを多くの人たちに知っていただきたいのです。
 10年ほど前、チューリッヒのユング研究所に招かれて、「神道と精神分析」をテーマにレクチャーをしたことがあります。私はユング派ではなく、フロイト派なのですが、巡り合わせですね。
  そのとき、「ついでに儀式をやってほしい」と。ちょうど6月30日だったので、「じゃあ、チューリッヒ湖畔で『大祓』をしましょう」と。念のため斎服等は持参していました。皆で祈りを捧げ、夕日が湖にキラキラ輝いて、非常に印象深かった……。
  それはそうと、レクチャーで私が話した日本人の死生観、タナトロジーは、おそらく西洋人に通じまいと思っていたのですが、あにはからんや、「よく分かる」というのです。まあ、ユング研究所ですから、そうした心性を持った人が集まっているともいえますが。しかし、よく考えてみれば、ユダヤ・キリスト教文化だって古層はずっと古いわけで、縄文的な&カ化は西欧にもしっかり生きています。心の中に、心の古層の中に。
  ですから、表向きはユダヤ教だって、キリスト教だって、それは構わない。そうではなくて、世界の人々が一番深いところで握手できれば、と思っているのです。

民族宗教や神道の儀式・祭事による交流も

  そうした流れがあって、三年前、カナダ西部、バンクーバーのブリティシュ・コロンビア大学(UBC)がビジティング・スカラーとして招いてくれまして、以来、レクチャーや対話を続けているのです。レクチャーだけでなく、神道儀式もするという交流が始まったわけです。
 カナダには縄文的な<tァースト・ネーションズの人たちが住んでいる。昔インディアンと呼ばれていた人たち……。私にとって大事なのは、こちらだけが神道儀式をするのではなく、そうした先住民の人たちがまず儀式をしてくれるということです。
先住民の人たちが、神殿(ロングハウス)で、太鼓や歌の入った清めの儀式をする。心に響いてくるものがあります。私たちも依代を立て、祝詞を奏上し、巫女舞を奉納する。バンクーバーの産土神にご挨拶をするわけです。
  彼らは日本人と同じで、あらゆるものに神が宿るという汎神論ですから、非常に感動してくれましてね。そして我々も感動しました。UBCに来ている各国の学者たちも感動していました。バンクーバー島に祈ノ森神社を創った女性の神主、アン・エバンスさんがいて、祭壇を持ってきてくれたり、手伝ってくださいます。
  カナダは先住民を大事にする。そういう土壌からか、合気道が非常に盛んです。道場ですから神殿、神棚がある。そこにも呼ばれるようになりまして、バンクーバー、ビクトリア、そして来年はカルガリーにも祈祷に行かせていただくことになっています。

  ◇  ◇

   今年はUBCで国際森田療法学会が開かれたので、私もジョイントしました。神道祭事もレクチャーも司会もコメンテイターもやらせていただいた。
 日本発の心理療法というと、森田療法と内観療法ですね。森田療法はよく、密教とか禅とか無我の概念で説明されますが、仏教概念で説明しきれない部分がある。たとえば、「症状や欲望は、自然に湧いてくる生きる力の現れである」という森田療法の考えは、神道概念を乗せると、すーっと通って、解り易くなる。そういう話をしました。森田療法は非常に日本的な治療法なのですね。

近代合理主義と原初的な信仰――相補しながら、その間を歩み続ける

 神職で精神科医――。結局これは、私の一生の課題ですね。精神医学、精神分析というのは、基本的にはユダヤ・キリスト教を背景にした近代合理主義が生んだものです。
  それが悪いと言っているのではない。しかし、そういう歩みの中で精神分析を続けていますと、神道などの汎神論的な世界観と必ず衝突するのです。それと、誰しもが認めるところと思いますが、一神教的な発想から出た近代合理主義は今、世界的に壁に突き当たっている。
  ですから結論的に言えば、近代合理主義と、それから神道を含めた原初的な――原始的ではない――プライマリーな信仰、この二つが二重らせん構造のように、相補的な形でやっていかねばならない時代に突入した、と私は思っています。
一神教的なものと汎神論的なものが補い合う関係。そこは常に葛藤の場でもあります。しかし、近代合理主義と原初的な信仰――この間を歩み続ける。希望はそこに見出せると私は考えているのです。


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