神道国際学会会報:神道フォーラム掲載
マイ・ブック・レビュー : 「神道の逆襲」 菅野覚明著

『 神 道 の 逆 襲 』 (講談社現代新書=サントリー学芸賞受賞)
―哲学的思索の発生現場として神をとらえる―


  我々は普段、あたりまえの世界の中で、あたりまえに生きている。我々が一日の内に、見、聞き、話し、することの大半は、その都度深く問いつめられて考えられるようなことはない。一挙手一投足にいちいち疑問を抱き、動きをとめて考えこんでいては、我々は普通の日常生活を送ることはできない。
 もちろん、人間は意味を問う生き物である。意味を問うということが、人間と動物を分ける決定的な境界であることはいうまでもない。我々は、必ずしもはっきり自覚してはいなくとも、時々刻々常に意味を問いながら生きている。しかしながら、そうした意味を問う営みは、普通は、我々の生活そのものをストップさせるほど大仰なものとなることはない。
 とはいえ、意味を問う動物である我々は、ときに、我々が日々生きていることそれ自体の意味をも問うことがある。そういう非日常的な問いがあらわれる場こそが、哲学や宗教を生み出してきたのである。
 人は、ときに人生そのものの意味を問う。しかし、何かの全体をとらえるには、人はそこから一歩離れた位置に身を置いて、その何かを眺める必要がある。とらえるべき何かから、「超越」した位置が確保されねばならないのである。日本の「神」とは、そのような「超越」をあらわすものとして、人々の知恵が見いだしてきた言葉なのである。
 人生の総体がとらえられる位置とは、また、我々があたりまえに生きている家常茶飯的な世界が相対化される地点でもある。家常茶飯的な世界の限界といってもよい。拙著の中では、日常世界がとらえ直されるその限界の立ちあらわれを、「反転」という言葉でいいあらわした。我々の日常的な生そのものが、あらためて意味を問われる、その契機を、古来日本人は、神のあらわれとして了解してきたのである。
 神のあらわれは、日本の伝統の中では、人生に関するあらゆる哲学的・倫理的思索の生まれる最も根源的な経験として了解されてきた。人生についてのさまざまな思索、価値や倫理、そういったものの問われる根源的な現場こそが、神のあらわれとよばれるものであった。
 神に対する感受性は、神道の儀礼や教説において形として保持されてきた。それはまた、外来の哲学的思想を理解するための手がかり、窓口の役割をも担ってきた。本書はそういう、日本人の形而上学的直観の「かたち」として、神道の教説をとらえ直すことをめざして書かれたものである。

菅野覚明(かんの・かくみょう)東京大学大学院教授。
倫理学・日本倫理思想史専攻。昭和三十一年東京生まれ。東京大学文学部卒、大学院博士課程修了。主な著書に『神道の逆襲』『本居宣長』『よみがえる武士道』『武士道の逆襲』など。




Copyright(C) 2005 ISF all rights reserved
当ウェブサイト内の文章および画像の無断使用・転載を禁止します。