神道国際学会会報:神道フォーラム掲載
新進・気鋭

岩 澤 知 子 さ ん

敬愛大学国際学部非常勤講師

日本的世界観の可能性を探る ―現象学的解釈学の方法論で―

 開口一番、「違和感とともに暮らしたアメリカでの研究生活でした」。大阪大学人間科学部を卒業後、ボストン大学大学院で哲学を学び、博士課程ではとくに宗教哲学を専攻した。
 「欧米流の心身二元論では伝統的に身体蔑視が強い。これは、宗教哲学で出てくる悪≠フ問題と関係があって、一神教でいけば善・正義としての神があり、その対立物として悪がある。悪の根源は身体であって、理性的人間たるもの、葛藤しつつもそれを乗り越え、精神的自立を獲得していく存在である。そういう論法です」
西欧の、悪・身体をめぐる自己意識、世界観――。「しかし日本人としては、存在というものはもっと混沌としていて、善も悪もあるがままに、あると見るのが自然だと感じていたのです」
   日本的世界観からの一つの回答は、アメリカでも知られた、鈴木大拙に代表される「禅ブディズム」だ。仏教の「空」は、英語では「エンプティネス(空無)」や「スティルネス(静寂)」と訳され、言葉の否定によってもたらされる原初的かつ静的な「心身一体」の世界観が強調される。
  「でも、哲学専攻の仲間は『西欧と違っていて面白いね』と、なかば鼻で笑って、それで終わってしまうわけですね。私としても、日本の世界観は、アメリカ人が理解するような禅的観念だけでは終わらない、よりダイナミックなものを持っていると予感していました」
   日本の宗教観念、世界観を再解釈するために最終的に選んだ方法論は、20世紀のフランス哲学を代表する一人、ポール・リクールの現象学的解釈学だった。「彼は『悪の象徴』で、古代神話の分析、解釈によって西欧の悪の意識を明らかにした。現象の奥にある深層を探るテキストとして古代神話を解釈する。私も神話をやってみようと思ったわけです」
   本居宣長の『古事記伝』を扱った論文では、宣長の思想を、「日本思想史」という枠内に閉じ込めてきたこれまでの議論から解放し、従来とは異なる哲学的視点―現象学的解釈学の立場―から新たに語り直そうと試みた。
   宣長は、日本人にとっての聖なるもの、すなわち、「可畏き物」を「むすびのみたま」の中に見出した。生命の全体性を包み込むこのダイナミックな「タマ」の原理を日本古来の思想として提示することで、宣長は、当時の日本の知識社会に蔓延していた儒教的「脱神話化」を乗り越え、人々の意識を「再神話化」することを目指した、と指摘する。
   しかしながらここでいう「再神話化」とは、決して「神話化」への単純な回帰を意味するのではない。それは、いったん「脱神話化」を経験した我々の意識が、長い伝統の中で培われてきた神話の意味を、一義的・硬直的にではなく、その「多義性」において解釈する自由を獲得する段階なのだという。
 宣長が「むすびのみたま 」を感じた「古事記」。「『古事記』はエンプティネスどころか、まさにダイナミック。『タマ』は一神教でいう創造ではなく、生成であり、精神と身体の二元性を相対化する動態的な存在原理です。ナショナリズムの根源としてタブー視されがちな日本神話を、今一度、自律性をもって読み直していくことが必要だと思っています」
   反秩序の「荒魂(あらたま)」と秩序の「和魂(にぎたま)」の円環構造は、西欧的な二元対立の構図では捉えられない世界だという。「命を揺り動かしているもともとの力。新たな再生を経験するための必然的な契機として『荒魂』は象徴されている」
日本思想は現代人にとって普遍的な意義を持ちうるのか――。言語を通して神話を再解釈するために、「荒魂」の思想の探求に取り組みはじめているところだ。

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