神道国際学会会報:神道フォーラム掲載
神道研究羅針盤 : 森田康之助氏に聞く
神社本庁教学顧問 /元國學院大學教授/元国立国会図書館専門調査員

本義の把捉はそれ自体の追求によるのみ
 A is B ――「Bの知識並べても主体Aには至らず」


 私はかつて論文の中で、「ものの認識とはすなはち、A is Bといふときのその図式に於いては、Bをばひたすらにこれ追求しようとするといふことこれであると、人は云ふであらう。しかしかうした認識ではそれこそ汗牛充棟もただならざる知識の積みかさねによりて総じてはすべてこれもたされるものの集積に了り、Aの根源にまで立ち至り、Aの方から行はれてくるところの、それこそ言葉にはなりがたいところのエトワスの把持からは、遠い認得におはるのである」と書いたことがあります。
 つまり、Aの本義を理解し認識しようとすれば、どこまでもAそれ自体の核となるところを何処までも追求しなければならない。「A is B」の図式にそって、いくらB1、B2、B3…を並べて、積み上げてもAの本質に至ることはできないのだ、ということを言いたかったわけです。Bの知識や認識を並べ立て、披瀝しても、それは単なる物知りにしか過ぎません。せいぜい知識人として世間に得意顔を見せるぐらいのものでしかないでしょう。
 神道の研究においても、主体AのAとしての本義を把捉するのでなければならないはずです。Aそのものの拠って立つところのものの認識に徹するのでなければなりません。
 本来ならば、主体的なノエシスとして働く神を捉えるのが本質でありましょう。影絵はあくまで影絵であり、本質、生命ではないのです。
 もとより私は、「A is B」のものの理解の仕方を否定するつもりはありません。弁証法的な論理のあり方も現実的な一般的な承認の方法として重要です。神道研究者としての我々は、願わくは、弁証法的な態度と、現象学でいうところのノエシスの働きとして在る神を把持する姿勢と、その両方相まって研究に臨むべきでしょう。
 しかしあくまで、それ自体を認識するというのは、自体がよって以って立つことができるかどうかという所の認得ですから、大げさに言えば、本質に迫ろうとする我々も主体的な生命(いのち)を懸けてのギリギリのところへと態度を持っていかねばなりません。知識の量で計ろうなどという生半可はできるだけ慎むべきであります。

「むすひ」の祈り
――本源に思いを馳せ

 伊豆諸島の利島では日々、自生の榊を二本採ってきて、ひとつは産土のご神前に捧げ、もうひとつは家族の無事平安を願いながら家に持ち帰り神棚に捧げます。二本の榊には人々の祈りが込められ、むすばれています。この思いを凝らした「むすひ」の祈りに、単なる事象研究のみで踏み込むべきではありません。
 よくよく背後にひそむ根源に思いを馳せるべきであります。 (東京・練馬の森田邸にて)





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