神道フォーラム 第31号 平成22年1月15日刊行

日々雑感: 「日露関係史の空白を埋めた名著」梅田善美理事長

    日露関係史の空白を埋めた名著  昨年11月17日、日本プレスセンタービルで開かれた第21回「アジア・太平洋賞」の表彰式・レセプションに出席した。この賞は毎日新聞社とアジア調査会が主催し、すでに20年前から、アジア・太平洋地域の政治・経済・文化などに関する優れた本を著した研究者や実践者に贈られている。
    そのアジア・太平洋賞の大賞に、本会会員であり、私たちの友人でもある新進の日本学者、ワシーリー・モロジャコフさんが著した大作『後藤新平と日露関係史』(藤原書店刊行)が選ばれた。  
    ワシーリーさんの母上、エリゲーナ・モロジャコワ博士は、ロシア科学アカデミー東洋研究所の副所長であるが、同時に、神道国際学会ロシア連邦事務所の所長として、ロシア神道研究者たちのリーダー役を務めていただいている。折りよく国際交流基金の招聘により法政大学で研究のため短期来日中で、息子の晴れ姿を目の当たりにすることができたのも、神の仕組みの妙というべきか。  
    ロシアにおける日本文化研究の第一人者である母上の影響をうけたワシーリーさんは、早くから日本語をまなび、モスクワ国立大学で歴史学博士を取得した。東京大学に留学して国際社会学博士を取得したうえ、再度モスクワ国立大学で政治学上級博士号を得たという41歳の若き碩学である。現在は拓殖大学日本文化研究所の客員教授と法政大学日ロ関係研究所特任研究員も兼務して、日本近現代史や国際関係史を専攻している。  
   授賞式には、オルガ夫人をはじめ、ロシア人や日本人の友人たちが列席し、私たちも招かれてワシーリーさんを祝福した。主催者側の選考理由によれば、後藤新平は明治から昭和に至る日本の激動期において、壮大なビジョンに基づく政策を実行した人物として知られているが、ワシーリーさんの研究によって、後藤がロシアの要人と深く関わって、日露戦争後の日本とロシア協調の方位を捜し求めていたという事実をはじめ、後藤とロシアとの密接な関連を記した世界初の著作として近現代史の空白を見事に埋めるものであるとのこと。若き友人の晴れ姿に加え、母上のモロジャコワ博士が無条件で喜ばれる姿には、胸の熱くなる思いだった。
    なお、アジア・太平洋賞の大賞には、これまでは一人の著書に与えられていたのだが、昨年度はじめて二人の著作が選ばれた。もうひとつの大賞は、ロー・ダニエル氏の『竹島密約』(草思社刊行)で、こちらは日韓の懸案である竹島をめぐる、日本と韓国の政治家の間に交わされた密約を題材にした力作で、これも話題性に富むものである。いずれにしても、21年にわたるアジア・太平洋賞の受賞作品のリストを初めて見た私は、アジアと太平洋に関する研究の多彩さに圧倒される思いがした。

ソウルにて第一回仙&道国際学術大会へ参加

梅田理事長が招かれて講演
    昨年10月22日から25日の4日間、韓国の首都ソウルで「第一次仙&道国際学術大会」が開催され、梅田善美・神道国際学会理事長が、基調講演者として招かれ、日本の基層文化としての神道について古代から近現代までの歴史を解説し、日本人のライフサイクルと神道の環境意識を紹介した。  
    主催は世界金仙学会、韓国道家哲学会、韓国道教学会、韓国道教文化学会で、高麗大学環境衛生研究所、高麗大学校日本研究センター、高麗大学哲学研究所、国立群山大学文化思想研究所、神明文化研究所が実際の運営にあたった。会場は、韓国の名門大学のひとつである高麗大学の百周年記念館と国際館。
     主催者側によれば、この大会の趣旨(概要)は、西洋によって無視された東洋、また東洋の中でも儒教文化によって排除されて来た基層文化を新たに探索するための学術研究の機会を開いて行くことを目指す、というもので、中央アジアやモンゴルのシャーマニズム、韓国の仙道、中国の道教、日本の神道、東南アジアのベトナムの土着思想にいたるまで、アジア各国の基層文化の実相を自由に交換する機会となることを期待して開催された。
9ヶ国から約120名の参加者  
    大会には地元の韓国のほか、中国、日本、モンゴル、ベトナム、シンガポール、アメリカ、フランス、メキシコから約120名の参加者があり、とくに中国からは30数名が参加。参加者のほとんどは、基調講演のほかに、分科会でそれぞれの専門分野の発表を行った。  
    22日には海外参加者のための歓迎前夜祭が催され、23日は、李基秀・高麗大学総長の出席のもと、高麗大学100周年記念館で開会式。その後、次の三分野にわかれて基調講演が行われた。
【第一部】「道家思想と仙道思想と現代文化」(李康洙・韓国・前延世大学教授)、「宗教と環境問題」(ドナルド・スウェアラー・米国ハーバード大学世界宗教研究所所長)、「自然を生きる道教の知恵の現代価値」(張継禹・中国・中国道教協会副会長)
【第二部】「韓国の山神の二十一世紀の役割」(デイビッド・メイソン韓国・慶煕大学教授)、「韓国伝統庭園内の仙道」(沈愚京・韓国・高麗大学教授)、「現代新道家思想の見方」(許坑生・中国・北京大学教授)
【第三部】「日本文化における神道の役割(過去・現在・未来)」(梅田善美・日本・神道国際学会理事長)、「道教文化における現実的意義」(卿希泰・中国・四川大学教授)、「道家思想と神明文化」(金白鉉・韓国・江陵原州大学教授)
9分科会で多彩な発表  
     24日は午前9時から午後5時まで、昼食や休憩時間をはさんで、「仙道」「道家」「健康」「土着文化」「環境と生態」などの九分科会が開かれ、延べ72名が発表した。  
    日本からは、次の4名の学者が分科会で発表した。  第七分科会「土着思想と固有文化」では、井上寛司・島根大学名誉教授が「日本の『神道』」と題して、神道(シントウ)の一般的な理解に対する疑問点と、日本の宗教の歴史的展開について問題提起し持論を展開した。  
    続いて桂島宣弘・立命館大学教授は、「19世紀日本における民衆宗教の歴史的意義」と題して、黒住教、天理教、金光教など民衆宗教の役割を分析した。さらに、梅澤ふみ子・恵泉女学園大学教授は「富士山信仰の世直し観=みろくの世の実現と陰陽平衡の回復」を紹介した。  
    第9分科会「環境と生態」では、佐久間正・長崎大学教授が「東アジア環境思想史研究の課題」について発表した。

連載・神道DNA「万国宗教会議とは何か?」 三宅善信師

   昨年12月3日から9日まで、オーストラリアのメルボルンで「万国宗教会議」2009が開催され、ダライ・ラマ14世をはじめとする世界各国から数千名の宗教者はいうまでもなく、ジミー・カーター元米国大統領ら退任後も国益を離れて国際的な視野で活躍する政治指導者、さらには、アボリジニーへの先住民政策で国際社会をリードするオーストラリアに学ぼうと、北米先住民であるファーストネーションや中南米のインディオや日本のアイヌなども数多く参加するなど、宗教対話の世界では最大の イベント である。
    「万国宗教会議」そのものは、コロンブスの「新大陸発見400周年」を記念して1893年にシカゴで開催されたコロンビア万国博覧会の際に、2ヶ月間にわたって数千人の宗教指導者を集めて世界ではじめての諸宗教による国際会議「万国宗教会議」に由来する。イスラム勢力に妨害されることなく、欧州(スペイン)から「西回り」で香辛料の産地インドへ直行するルートを求めて航海に出たコロンブスが、結果的には「アメリカ」という新大陸(当時は「西インド諸島」と呼ばれ、そこに暮らしていた先住民を「インディオ」と名付けた)を 発見=@することになったことは、世界中の誰でも知っている話である。ただし、その先住民たちは、白人によって駆逐され、キリスト教という白人たちの価値観による新しい「国家」が次々と建てられた。そこには、新たな労働力としてアフリカ大陸から強制連行されてきた黒人 奴隷 という悲劇の要素も加わって、500年を経過した現在でも、この大陸に多くの後遺症が残っていることは言うまでもない。  中でも、アメリカ合衆国という国は、英国から移民してきたアングロサクソン系のプロテスタント――これを「WASP」と呼ぶ――によって建国された国家であり、歴史上、類を見ない成功を収めた国家となった。しかし、今でこそ黒人が大統領になれるほど多様な価値観が許容される国家となったが、この国の初期(東部のニューイングランド)は、現在の中東イスラム諸国以上のとんでもない神権政治 国家であったことは、日本ではあまり知られていない(ちゃんと高校の世界史の教科書には載っているが…)。同じ「白人」でも、遅れてやってきたアイルランド系やイタリア系やポーランド系のカトリック教徒などは、WASPからは明らかに差別されていた。しかし、合衆国が建国されて約100年が経過した19世紀末には、大西洋を越えて「遅れてやってきた」白人たちや、太平洋を越えて新たに中国(清国)や日本からやってきたアジア系住民の人口が爆発的に増加し、文化的・宗教的にもWASPが無視できない勢力となってきた。  
    そのような中で、シカゴでコロンビア万博が開催され、件の万国宗教会議が招集されたのである。もちろん、主催者たちは、諸宗教の存在を認めはするが、それはあくまで、 究極の宗教 であるところのキリスト教への進化の途上にある諸宗教。あるいは、 太陽 たるキリスト教の回りを公転している 惑星≠フごとき存在としての諸宗教として、諸宗教をキリスト教中心のヒエラルキーへ編入を試みたものであった。しかし、少数ではあったが、はるばる東洋から参加した上座部仏教代表のダルマパーラやヒンズー教系新宗教の教祖スワミ・ヴィヴェーカーナンダや臨済宗円覚寺派管長の釈宗演らから寄せられた講演は、欧米のキリスト教指導者たちの予想を遥かに凌ぐレベルの高い内容で、「キリスト教の優位性」の証明を目論む彼らに、大きな衝撃波となって伝播して行った。  私は、その万国宗教会議の精神を引き継いで、1900年にボストンで創立されたIARF(国際自由宗教連盟)の国際評議員のひとりである。また、万国宗教会議100周年を記念して1993年にシカゴで開催されたのが、今日の万国宗教会議である。それ以後、1999年には南アフリカのケープタウンで、2004年にスペインのバルセロナで万国宗教会議が開催されたのに続き、第4回目の万国宗教会議が『違いを認め合う世界を創り出そう:互いを癒し、地球を癒す』をテーマに、オーストラリアのメルボルンで開催されることになった。テーマにも、百年間の進歩の跡が伺える。  
    私は、与えられた一時間のプレゼンテーションの際に、聴衆の五感全てに訴えるため、わざわざ装束姿に正装し、雅楽の生演奏をバックに全編英語での神式儀礼を行うと共に、第二の「ヴィヴェーカーナンダ」たらんと、独自の価値観からの講演と質疑応答を行った。おかげで、プレゼン終了後、急遽、地元テレビ局からの出演依頼や国際ラジオ放送から収録を頼まれるなど、「日本的価値観」について、それなりの発信ができたものと自負している。

ISF ニューヨーク便り

ダライラマ法王を迎え  
   諸宗教対話の集いに参加 昨年10月10日、中西オフィサーとワシントンDC地区連絡事務所の新宅メラニーは、ダライラマ法王を迎えた法要「The Heart of Change with His Holiness the Dalai Lama」で神道祭祀と神楽舞を奉仕した。 企業からのスポンサーを受けず、各仏教団体はじめ様々な宗教、非宗教の団体と400名を超えるボランティアによって運営されたこの法要には、4400名もの参列者があり、その収益はヒマラヤその他の地区の子供達の教育に使われるとのこと。  会場のアメリカン大学ベンダーアリーナでは、新宅メラニーが夫の四郎氏、中西オフィサーの助けを借りて、400名以上のボランティアのまとめ役となり、法要当日には、説法を終えたダライラマ法王から、直接チベット仏教の白いスカーフを首に掛けられるという栄誉を授かった。 午後には、ステージに掛けられた巨大な仏像の図の前で、中西オフィサーが平和を祈る祝詞を奏上して、会場と参列者をお祓いし、新宅メラニーが浦安の舞を奉奏、最後に中西オフィサーが挨拶し、儀式や神楽舞について解説した。
ウエストポイント陸軍士官学校で講演
   10月13日、NY州ウエストポイントに所在するアメリカ陸軍士官学校より依頼を受け、中西オフィサーが、神道講座を行った。 陸軍士官学校教官のジェミィ・フィン少佐が各国の主要な宗教を研究する授業の一環として神道を取上げ、ISFに依頼してきて実現したもの。 当日は30名を超える士官候補生を前にして、中西オフィサーが修祓の儀を奉仕し、続いて「What is Shinto -- from my personal experience?」との題で日本人の宗教観、日本の神社における神職の日々などを、20枚以上の映像を交えて説明、質問に答えた。
ニューヨークとワシントン地区で七五三行事
   毎年恒例のISFの国際七五三行事は、NYでは10月24、25日の両日に、ジャパン・ソサエティホールにて執り行われた。またワシントンDC地区では翌週の10月31日、11月1日の両日、DC地区連絡事務所の新宅夫妻が運営する天心一流道場で開催された。この行事は日本の伝統的な年中行事をアメリカでも体験して頂くためにISFが始めたもので、NYでは10回目、DC地区では3回目となる。NYでは会場のジャパン・ソサエティ、国連日本代表部やニューヨーク総領事館などの日系団体、またDC地区では日本国大使館や日米協会などの協賛をえて、米国東海岸の秋の風物詩となっている。本年はNYにおいては110名程の子供たちを含む約400名の参列者、DC地区では約30名の子供達を含め100名程の参列者があった。 式典では中西オフィサーが斎主となり子供達の永久の幸せと健勝を祈る祝詞を奏上した。色とりどりの晴れ着を着た多くの子供達は千歳飴を授与されて笑顔を見せ、夏から七五三行事に掛かりきりだったISF事務主任の林原礼奈は「受付から着物の管理まで大変でしたが、子供の笑顔を見て苦労も吹き飛びました」と感想を述べている。
ボストンで竣工祭
   11月12日、ボストンで竣工祭が斎行され、中西オフィサーが奉仕した。  この祭典は、さる6月に改築清祓並びに工事安全祈願祭を奉仕した興和株式会社が、新しい研究拠点を竣工したことに伴い、再び依頼を受けて今回の奉仕となったもの。 祈願の甲斐もあり工事も順調に終わり、参列した関係者は真新しい研究所の姿にしきりに感慨のことばを発し、式典では玉串を奉って神前に新しい船出をした研究所の発展を祈願した。 この新しい研究所は、学術都市ボストンのハーバード大学メディカルスクールの一角にあり、年内には機材の運搬や研究員の引越しが始まるとのことで、今後は同社の北米における医薬品開発の拠点となる。
メルボルンでプレゼンテーション
   1893年に米国シカゴ市で第1回大会を開いて以来、世界各地で開催されている万国宗教議会 (Parliament of the World痴 Religions)の2009年大会がオーストラリアのメルボルン市の国際会議場で昨年12月3日から9日まで開催され、世界中から約5000人の宗教リーダーや実践者、学者などが参加して、南半球の都市に多種多様な宗教衣服の人々があふれた。 大会のメインスピーカーのひとりに予定されていた深見東州ISF代表が急に参加できなくなり、梅田善美理事長と梅田節子事務局長と新宅メラニーISF米国ワシントン地区代表が代理を務めた。 12月3日の開会式では、5000人の参加者の前で梅田節子師が神道儀式にのっとり祓詞を奏上して清祓えを執行、新宅メラニーが鈴を振って祝福した。 翌4日からは数百に及ぶ諸宗教のプレゼンテーションが行われた。ISFは4日午前8時から一時間のシントウ・オブザーバンスを催した。内容としては、DVD「日本は森の国・第五話『森をつくる話』上映、深見東州代表の挨拶(宮崎みどりさん代理)、日英両文の祓詞奉唱、新宅メラニーによる巫女舞と続き、梅田善美理事長が神道と日本人の生活や文化とのかかわりをパワーポイントの映像を交えて講演した。質疑応答も活発で、なかでも日本固有の伝統信仰である神道の国際性について厳しいやり取りもあった。 日本からは金光教泉尾教会から三宅善信総長が参加、金光教の儀式や講演などを行ったほか、黒住教や立正佼成会、神慈秀明会などが参加した。

新春対談 「日本の民俗芸能と神道文化」

小 島 美 子(国立歴史民俗博物館名誉教授)
薗 田  稔(神道国際学会会長)
進行=茂 木 栄(神道国際学会理事)

   民俗芸能や祭りの文化に関心を寄せる人が世代を超えて増えている。日本には無形の芸能文化が豊かに、活き活きと受け継がれている。我々の誇りでもあり喜びでもあるこの豊かな無形遺産を生きたかたちで未来へとつなぐために、芸能や祭祀の文化性、特質、あり方などを語り合ってもらった。

「獅子舞」「神楽」「囃子」「盆踊り」……
 無形民俗文化に日本人の心根が見える

茂木 民俗芸能についての小島先生の持論では、土地ごとに生活や労働からくる土俗性やリズムに個性があって、それをその土地の人たちが体で受け止めていて、独特の身のこなしや姿勢・所作に表れている。民俗芸能の芸態の違いや民俗芸能の地域性に反映されている、と。やはり芸能というものは生活・労働と無関係ではないと納得できて、非常に面白いと思っているんです。
小島 日常生活での体の使い方が、芸能の形に反映されていくと思うんですね。
たとえば牧畜民系の人たちが馬を駆るときは、まず予備的に一回、弾んで、それから動きに入っていく。だから西洋音楽のリズムは四拍めで弾んで、その勢いで強く一拍めに入ります。上拍つまりアップビートによって力が入る。
この予備的な弾みというのが日本人は非常に不得意です。やはり我々は稲作農耕民ですから、田んぼの泥に両足を突っ込んでいますからね(笑い)。バレエのように爪先では立てないわけですよ。バレエでは上へ上へと動く。あるいは上のほうへ、跳ぶ。
薗田 日本の舞踊は基本的に地面を踏みしめる。そんな感じですね。跳ぶことも、動くこともあるけれど、腰の位置の根本のところは動かさない。
小島 そう、動かさないですね。重心を低く、そして摺り足で。「腰を入れる」という言葉を重視する。神主さんたちの立ち居振る舞いも、基本として同じことがあるのではないですか。そうしないと、ふらついたりするから。
薗田 やはり同じことは言えますね。腰を少し落としながら、という感覚はあります。
小島 稲作農耕民と牧畜民の違いなんですね。
そして、「沖縄の人たちは、そのどちらでもないな」と思ったんです。沖縄で昔、海に出るときのサバニっていう漁船。あれは細長くて、波の動きに合わせて体をうまく対応させないと落ちてしまう。ですから「波に乗る」というのが沖縄の踊りの原点にあるのではないか、と。
その点、ハワイなどポリネシアの海洋民の踊りは、上下動ではなくて横揺れでしょ。
薗田 ハワイアンのフラダンス。
小島 そうですね。あの辺りのカヌーには船体を安定させるためにアウトリガーという浮が付いている。それで完璧に安定するのかと思っていたら、すごい横揺れになるんですって。それを聞いて、「ああ納得」って(笑い)。
茂木 やはり、そうやって体が作られるということですね。基本的な生活の中で。

芸能ふくめ文化には宗教性が内在する
「遊び」こそは「祭り」と「芸能」つなぐもの 薗田
   
茂木 日本の芸能についてですが、これは「祭り」や、「遊び」と表裏一体の関係になっている。そこは薗田先生が昔から主張されている儀礼文化論の領域でしょうか。南信濃の遠山の霜月祭でも、神楽歌の中に「遊びする間に夜がほけた」という詞章があって、神楽のことを「遊び」と称した時代もあったんだなと注目したのです。
薗田 「祭り」の意が込められたものとして「文化」「カルチャー」という言葉があるわけですよ。ラテン語の語源からすれば「耕す」「祭る」の意味合いがある。農民の祈りがおのずから入っていて、そして生活の一つの様式を成している。 人類が誕生して以来、そこには宗教性があるはずですから、宗教を抜きにした文化なんてありえない。芸能という文化にしろ、宗教性が内在するのは当然なんです。 宗教と文化は別だという観念は、宗教改革でプロテスタントが発想したレリジョン、宗教です。個人の信仰とか、排他的な信念といったところを強調したいがための発想で使い出した。
小島 言葉の意味や宗教観念が変質したわけですね。
薗田 ええ。ですから、宗教の観念が日本人の信仰の実態には馴染まないわけですよ。「無宗教です」と言ったって、お盆やお彼岸にはご先祖をお参りするし、神社のお祭りにも参加するし。これだって日本人らしい立派な宗教文化ですよね。 文化としての宗教のあり方が祭りであり、芸能でもある。そしてその「祭り」と「芸能」をつなぐものが、じつは「遊び」だと思うんです。それは単なるレジャー、レクリエーションではない。いま言った文化的な意味での遊びです。日本はその遊びが非常に豊かな国なんですよ。
小島 遊びという言葉の中に芸能的なものが随分と含まれていますものね。英語の「プレイ」にも。
薗田 そうなんです。その点を見事に、明快に言ったのがクリフォード・ギアツという人類学者。「ディープ・プレイ」という言葉を使っている。バリ島を中心としたインドネシアの男たちは闘鶏をするんですが、これは単に鶏を闘わせるゲームではない。社会的なステイタスを明らかにするなど深い意味を伴ったディープ・プレイである、と。日本には「田遊び」「神遊び」というものがありますが、これもまさにディープ・プレイです。
秩父に安永年間の「秩父領百姓年中業覚」という生活文化の書上げみたいな史料が残っているんですが、その中に「遊び候」という言葉がたくさん出てくる。神祭りの物忌みにつき農作業は差し止めて一日遊ぶとか。昔の人は今の人より、よほど遊んでいる(笑い)。
つまり、日常とは明確に区別された非日常的な時と場所があって、そこでは神様や祖先と触れ合いつつ、じつは日常を支えているといってもいい見えない世界に遊ぶ。それは祭りの一つの真骨頂だと思うけど、同時に、芸能の原点もまさに、そこにあると思うんです。

「神事」を理由に指定されない無形文化財  小島
屋台行事も神楽も神事あってこそ意味を成す 薗田

茂木 小島先生などの監修で、『祭・芸能・行事大辞典』が昨年秋に朝倉書店から刊行されたのですが、私も祭りの部分で関わらせていただきました。薗田先生には推薦の辞をいただいたのですが、今のお話と絡んで、まさに日本には豊かな「祭り」があり、遊びの文化がある……といった感を覚えました。
薗田 先進国の中で、民俗芸能や民俗行事を扱った、あれほど大部の辞典が出せる国は日本だけだと思いますね。 私がかつて滞在したドイツなどでは、もう民俗学は成り立たない、対象が消滅したというんですよ。古い民俗が一端ほぼ絶えているんです。だから今後は、「ドイツ的な大衆文化」といったものを研究するんだとか、民俗学の内容を変更する必要があるだなんて議論をやっていました。
先進社会でありながら、膨大な民俗芸能や民俗行事が、現実に生きた形で継承されているのは、やはり日本だけでしょう。
小島 ヨーロッパにも古いものが結構あるなとは思いますけれど、それは石造りが多いから有形文化財なんですね。無形遺産は少ないですね。
薗田 無形遺産だって時代に合わせて随分と変化はしますが、しかし、文化財や文化遺産について矛盾に感じているのは、たとえば私の神社の「秩父祭」にしろ、内容として無形文化財に指定されているのは「屋台行事」と「神楽」なんですよ。核になるはずの神事は入っていない。ようするに政教分離なんですね。
小島 確かにおかしいですよね。秩父の場合、付け祭のほうだけ指定されているということですからね。
島根の「大原神職神楽」ですけれど、本当に神懸りしたりするわけで、貴重な芸能だから無形文化財に指定してほしいのです。ところが、神職がやっているものは民俗芸能とは言えないとか、神道教化に従事している者がやっていて宗教活動だからダメだとか、色々な理由でまだなっていません。指定されたものでも、名称に「神事」と付いていると、それを削って「何とか行事」ってしちゃうでしょ。
薗田 屋台行事にせよ神楽にせよ、祭としての神事があってこそ意味を成すのに、それを抜いちゃう。だから「餡を抜いた饅頭みたいなものだ」って私は言っている(笑い)。
小島 そもそも、どこの国でも、結局は宗教と一致したかたちでやっているじゃないですか。日本だけが政教分離って変じゃないかと、私も仲間と話していたんです。一時、国家神道とされたために宗教が問題にされてしまったのですね。

山村の囃子に共通する浮立つようなリズム感  小島
お囃子や盆歌が心にしんみり沁みてくる時が  薗田
盆踊り、神楽……「塩の道」は「芸能の道」   茂木

茂木 民俗芸能の音楽的な部分についても、もう少しお聞きしたいところですが、これは小島先生の専門であり、また薗田先生は秩父夜祭の屋台囃子について感じるところもあると思うのですが。
薗田 秩父屋台囃子が伝わったルートはどうなっているのか。トッコ、トッコ、トッコ、トッコ……という鼓動の波のようなリズムはいかにも山国らしいし、秩父は上州(群馬県)とのつながりがあるから、そちら方面かなと思ったりしますが、確証がないんです。
小島 上州というところは、古代には渡来人がたくさん移ってきて文化的に発達した歴史がありますからね。でも、楽器の編成自体は、基本的には笛、大太鼓、締太鼓、鉦。関東はほとんどみな同じです。ただ、江戸のものは音楽的にはずっとスタティックで、微妙な間の駆け引きとかに向いてしまうのですが、その点で秩父はトッコ、トッコ……と。そこへ大太鼓がドン、ドンと入ってくるあたり、すごく魅力的ですね。
ですから、楽器編成は似たようなものが入ってきても、それぞれの村落でそれなりの音楽に仕立てていく。そう考えていいと思いますけれど。
たしかにあのリズムには平地の人にはやれないものがありますよ。日常生活の中で坂の多い町の人々は、膝とか足首の使い方が平地の人々と違って柔軟なんです。それがリズム感に影響しているのです。基本線のトッコ、トッコという、浮き立つようなリズム感は山村の人々には共通すると思います。
薗田 そうなんです。しかし逆に、山の上の御旅所で夜祭が終わって、帰還巡行で屋台が一台、また一台と降りていくのですが、そのときのトッコ、トッコ、トッコという音は、祭が終わる寂しさと相まって、しんみり、しみじみと心に沁みるんですよ。
しんみりとして、ということで言えば、かつて調査で「新野の盆」を体験したことがある。茂木先生も一緒でしたね。下伊那の山地にある孤立した小さな高原の町で、メイン通りを盆踊りが行く。櫓はあるんですが、ほとんど歌だけなんです。喧しくなく、しんみりした、いい感じだった。
茂木 参州街道の集落ですね。いわゆる「塩の道」の一つで、「塩の道」は「芸能の道」でもあるんです。
小島 歌だけでやる形ですね。下駄の音が太鼓代わりになっているところもあります。死んだ人を静かに迎え、送るという感じが出ているわけですよね。
薗田 そこが素晴らしいと思うんです。「新野」では、新盆の家で丁重な供養があり、その家の切子燈籠を集めて盆歌の櫓に飾る。盆踊りの夜が終わると、それを村境まで送っていって、最後に燈籠を積み上げて燃やすんです。
その送り行列が踊りながら、「まだ、いいじゃないか」と、亡くなった人を呼び止めるんですね。亡くなった人の霊を集落の人たちみんなで慰める。都市化で希薄になった人情の暖かい行事だと、しみじみ思いましたよ。

イノシシ(猪)、カノシシ(鹿)、熊……
三匹獅子舞などに見える慰霊観念     小島
初物を聖化・犠牲して神と共食する
―稲作文化の「初穂」も供犠観念の一種  薗田

茂木 霊を慰めるということでは、小島先生は「三匹獅子舞」という芸能のなかでも論じておられた。
小島 関東、とくに利根川流域には三匹獅子舞が多いのですけれど、調べると、シシとはもともとは肉のことで、それから人間に食べられる肉の動物をいうようになりました。関東では猪で、岩手県などではカノシシ、つまり鹿です。秋田方面のマタギの人たちは熊のこともシシと言っていることが、このあいだ分かって、びっくりしました。
そして結局、三匹獅子舞というのは、自分たちが獲って食べたシシ、つまり猪の霊を慰めるのが、もともとの形じゃないかなと考えているんです。
薗田 獲物供養のようなことですかね。
小島 ええ。たいていの三匹獅子には「雌獅子隠し」という所作が入る。二匹の雄獅子が一匹の雌獅子を探すのですが、これは、人間に獲られた猪を別の猪が必死に探している様子を見て、作ったものという気がする。 そういえば山城国の風土記逸文に、加茂社の「競べ馬」のことが出てきますが、「人は猪の頭を被り」とある。「駆ける」とあるので競べ馬に目がいってしまうけれど、「猪の頭」とはっきり書いています。中国や東南アジアなどでは獅子舞は縫ぐるみを着ますが、日本の獅子舞はみんな頭だけ。風土記の時代、すでに、猪の頭を被る形があったんですね。
いずれにせよ、魂を慰める儀礼が最初で、その意味が分からなくなってくると、目的が「水難除け」や「雨乞い」に変わったのだと思います。
宮崎の銀鏡神楽でも猪の生首を供えますが、聞くと、「犠牲じゃない、アイヌの人たちの熊祭りと同じ気持ちだ」と。やはり霊を慰める気持ちがある。ですから日本の場合、すべてを供犠とか、柳田國男のいう犠牲とかって考えてはいけないと思うんです。
薗田 供犠と捉えても、かなり広い意味に理解できると思うんですよね。ファースト・フルーツなどと言いますけど、初物を聖化し犠牲にして神と共食してから許されて、その後の収穫をいただく。狩猟や牧畜なら最初の獲物や初子ですが、稲作文化の稲の初穂もこの意味で供犠の一種だと思う。南米ではトウモロコシを供犠するという考え方がありますからね。

神楽の根元は神懸り、そして託宣     
祭りや芸能の持つ本来の意味を考えたい   小島
芸能は時と場所と季節性が込められたもの   
日本人は隠れて見えないものに尊さ見る   薗田

茂木 お話の所々に出てきました神楽についてはいかがですか。全国神楽の連絡会の結成をめざす動きもあるようですし、神楽研究が再び盛んになっているようです。神楽とは何か、その原点、本質については。
小島 神楽の根元は神懸りして託宣するっていうことでしょう。フロイスの『日本史』に春日大社が出てきますが、そこでは男がお囃子して、巫女がグルグル回って倒れて託宣する、と。舞って神懸って託宣する。「年中行事絵巻」にも巫女神楽が出ている。このあたりが元のかたちで、そして、神楽をやる人も、周りの人も、神に心を寄せていくには冷めていては、やはり良くないわけで、乗せるために右手に鈴をもち、神を呼びながら舞う形が必要だったと思います。それから、見ている人々を楽しませるために余興的に神話的なドラマを付けたりして芸能化していったのだと思います。
薗田 それはよく分かります。神懸りになって託宣する神楽には、時と場の雰囲気が要りますね。
小島 神秘的な雰囲気がないと神懸りしにくい。今はドラマの方が神楽の本体だと思われて、民俗芸能大会というとヤマタノオロチで、スモークを焚いて、目がピカピカ光ったりで(笑い)。
薗田 芸能の継承の仕方ですよね。神事芸能にしても、季節や生業の暦に合わせて演じられるのが本来の在り方です。時と場所、季節性がキチッと読み込まれているものが少し崩れてくる危険性が見られます。
小島 祭りや芸能が持っている意味っていうものがだんだん分からなくなっている。単なる楽しみぐらいに思っている人が多いですから。でも本当は、多くの人々は心のどこかで何か普通の娯楽とは違うと感じているのではないでしょうか。
薗田 神様でも本来は隠れてあるもので、姿を持っていない。お祭りの時だけお出ましになるわけですが、姿形を持たず、神霊が何かに宿る様式で、だから芸能も神懸りに由来した。祭りも本来は夜にやる。夜が神や霊性の世界だからです。見えないから尊いという逆説的な接し方が日本人の神聖感覚には内在するはずなんですよ。
小島 そこが西行法師の歌と伝える「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」なんでしょうね。
(東京・上野精養軒で)

小島美子(こじま・とみこ)=福島県生まれ。東京大学文学部、東京芸術大学音楽学部卒。東京芸術大学講師、国立歴史民俗博物館教授、江戸東京博物館研究員などを歴任。日本民族音楽学会会長。民族・民俗芸能とその音楽性に関わる著書・講演など多数。
薗田稔(そのだ・みのる)=神道国際学会会長、秩父神社宮司、京都大学名誉教授。
茂木栄(もぎ・さかえ)=神道国際学会理事、國學院大学神道文化学部准教授

神道展示館訪問 : 神長官守矢史料館

かつての御頭祭の姿を再現
諏訪祭祀を司った守矢家に伝わる文書類も

   諏訪大社上社前宮で行なわれる主要祭事の一つ、御頭祭のかつての姿を彷彿とさせる史料館。
ながく諏訪大社の祭祀を司った守矢家は、太古には「洩矢の神」と呼ばれていた。その洩矢の祭祀の中心をなしたのが御頭祭で、神前に鹿をはじめとした獣肉、魚、鳥、酒などを献じ、篝火のなか、神と人とが一体となって饗宴したという。
   史料館では、天明4年に同祭を見聞した菅江真澄のスケッチをもとに、神に献じたその飾り付けを復元するとともに、守矢家に伝わった諸史料をあわせて展示する。
   土着の神「ミシャグジ」の神器でもある鉄鐸(さなぎの鈴)、御柱祭でも重要な役割を果たす御贄柱や藤刀などに、重層的で豊かな諏訪信仰のありようが垣間見える。史料・文書関係では、肉食が許される御符「鹿食免」の版木、武田信玄が神長に宛てた書状、諏訪の縁起「諏訪大明神画詞」の写本、遺跡からの遺物品もある。
   同館の特徴的な建物は地元出身の建築家で、東大教授の藤森照信氏による設計。中世信仰のイメージを取り入れているという。

▼長野県茅野市宮川389-1
▼電話0266(73)7567
▼9時から16時半
▼休館は月曜と年末年始、祝日の翌日。この日が月曜にあたる時はその翌日も休館
▼大人100円、高生70円、中小生50円

From Abroad −外国人研究者紹介

ウィリアム・ボディフォード氏
(カリフォルニア大学ロサンゼルス校アジア言語文化研究学部教授)


日本人の生活に溶け込んだ宗教の姿を解く
    日本文化、とくに日本の宗教について歴史的な研究を重ねてきた。なかでも仏教に関する研究に業績が多いが、「日本人の生活に根ざした仏教を理解するには、神道だとか、儒教・道教だとか、切り離して考えないほうがいい」と話す。
   「中世の禅の広がりと発展を研究したことがある。禅僧が行をし、教化しながら、寺のないところに寺を建てていく。そのとき境内に、神様も祀っているんですね」
    中世に、そして現代においても確かに残る、日本人の信仰のかたち。「神様は村という場所の歴史や鎮守を表現し、仏様は普遍の世界の真理を代表する。日本人の生活には、その両方が必要だった。グローバルな世界に参加しつつ、地域的な伝統も守る――。日本文化の微妙で、面白いところだと思います」
    単なる仏教哲学には収まりきらない生活に根ざした「私たちの神様、私たちの仏様」。その宗教心性を酌むべく、文献史料の読解と、実地調査を継続している。

武術「鹿島神流」を本格的実践

   日本を代表する武術の一つ「鹿島神流」の北米講武支局連合主幹、カリフォルニア大学支部長も務める。「若い頃、アメリカに住んでいた日本人の優しさ、彼らの持つ歴史の長さ、文化の深さに惹かれた。日本に興味を強めるなかで武術も始めた。まあ、縁があったということでしょう」
    カンザス大学卒。エール大学大学院修了。駒澤大学などへの留学経験もある。禅に関する研究論文で博士号を取得。アイオワ州立大学などで教鞭を執り、現職。明治学院大学客員教授も務める。

伝統をささえる:御柱曳行に奉仕する氏子の人々(長野県諏訪市)

「安全」「成功」に向けて気を引き締める曳行責任者
「安全な曳行には時間厳守」(上社の五味さん)
「皆が最大限に喜べるよう」(下社の宮坂さん)

   「御柱祭」で、御柱を曳行し、4つのお社に建てるまで全力を尽くすのが氏子の人々。祭執行にあたって、上社31人、下社38人の氏子大総代から、代表ともいうべき曳行責任者がそれぞれ選ばれる。今回、代表を務めるのは上社が「上社御柱祭安全対策実行委員会」委員長の五味武彦さん(諏訪市)、下社が「下社3地区連絡会議」会長の宮坂隆平さん(岡谷市)だ。
   五味さんは「『御柱』曳行も時代とともに変わっている。見せる『御柱』になってしまった感もある」と話し、若い頃から祭にたずさわってきた諏訪っ子の一人として、氏子らに心意気を喚起する。また、「とにかく怪我をしてもらっては困る。決まった時間から遅れると、後から来る曳行者の危険度が増すんです」と強調。「安全な曳行のためにも時間厳守」と氏子らに呼びかけているという。
   宮坂さんは「氏子らにとっては、ここに賭けているともいうべき7年に一度のお祭り。時間に正確に、そして安全に徹し、皆が最大限に喜べるような曳行にしたい」と抱負を語る。下社の場合、狭い道路が多く、もちろん「木落し」では危険も伴う。「外からお越しの皆さんにも安全に見てもらえるよう気を配る」。そして、「経済状況が悪くて大変だが、氏子たちはみんな、それを乗り越え、成功させようとの思いを持っていますよ」と力を込めている。

神社界あれこれ:「地域おこし」は鎮守の森で

「信仰」「町おこし」の盛り上げに月の舞&納
東京・檜原の九頭龍神社

   東京都檜原村数馬の九頭龍神社で昨年10月11日、舞の奉納行事があり、地元住民や有縁の人ら多数が集まった。羽衣舞などの指導をする倭瑠七さんらが月の舞≠イメージした舞を神前に奉納。続いて神楽殿で、倭さんと門下生、プランニング事務所を運営し自らも舞唄を歌う伊藤裕子さんらが舞と唄を披露した。
   地域に鎮まる神社への信仰と町おこしの機運を盛り上げようと企画された行事。神職で宗教研究家の西沢形一さんが発願企画し、伊藤さんらとともにプロデュースに動いた。神社に近い九頭龍の滝で禊行を続ける人たちも協力した。
   企画した西沢さんは「信仰という根の部分がないと地域おこしは中途半端になる。鎮守の神様にまず心を捧げることが大事」と話し、奉納舞を終えて倭さんも「舞の原点は、目に見えない、耳に聞こえない大きな力を感じて『うれしや、うれしや』と湧き上がる感情を表現するところにある。天地が共生し、集まった皆さんも共生し、喜びあえたことに感謝したい」と語った。

「過疎の村を活き活きと」
――収穫感謝の楽舞&げ
 茨城・常陸大宮の鹿嶋神社

   茨城県常陸大宮市下桧沢の鹿嶋神社で昨年10月25日、地元住民による「楽舞(らくまい)」の奉納が行なわれた。収穫を喜ぶ創作舞踊が奉げられ、地域内外から集った人たちは交流を深めるとともに、有志の手によるつきたての餅やけんちん汁に舌鼓をうち、秋の一日を過ごした。
   山村地帯ということで過疎化の進むなか、鎮守の森を舞台に人々の親睦を深めることで地域おこしを目ざそうと開かれたもの。同県北地域の活性化につながるとして、(財)グリーンふるさと振興機構の支援を得てスタートし、今回が3回目。地元の交流団体「常陸の国を学ぶ会」代表の豊島美繪さん、「楽舞」指導に当たっている堀馨与さんらが中心となって企画・実行している。 豊島さんは「和みの里にすばらしいお宮がある。でも過疎のなかで、はたしてお祭りができるのかと心配もあった。さいわい多くの人が集ってくれています」と話し、新たな奉納行事に手応えを感じている様子だ。

書評と新刊紹介

マイ・ブック・レビュー 『伊勢参宮本街道を歩く』  著者・吉井貞俊

    第62回正遷宮が近づいてきた今日この頃、大阪から伊勢へ向う伊勢参宮本街道を実地に歩いているその見聞記を刊行することにした。実はこの街道歩き、第60回つまり昭和48年の正遷宮に際して実行し、また次の平成5年に際しても同じ街道を歩いて、その成果を遊行伊勢本街道と題して発行した。今回の拙著はこの平成5年版の再版と今回実施し、本紙に伊勢本街道を歩くと題して連載していた作品に、小生の出生神社である伊勢の猿田彦神社に関する絵巻三巻を新たに加えて発行した。それにしてもどうして同じ街道を重ねてあるいているのだ、その他のコースもあるはずだと云われる方もおられようが、発刊する当の本人たる私は、同じ個所の変遷具合を比較していくのも意義深いことであり、この私が居なくなった後も誰か引きついで続けていって下されば、遷宮が単なる神宮の神事というものではなく、20年ごとにその変化が明らかになり、一種の社会現象がそこから生じてくると思っている。これが江戸時代、明治の代から続けられていたら、どんなに価値あるものになっていただろうとつい思ってしまったりしている次第。旧街道を歩いていて日に日に古街道の面影が時代の流れによって随分変化してしまう事を嘆く人がたくさんいるが、考えてみると、これら悲嘆している本人そのものは街方に住んで、全て快適な生活をしているのであるから、本街道に面する人々が昔通りの生活を強いられる事由はないはず。行き着く伊勢の神宮は、正遷宮を重ねて常に古式を保っているとすれば、途中に位置する本街道の様子が変化すればする程、神宮の値打ちが上るというのが私の考え方と思っている。

▽ A5判、260頁(写真・図版70葉)、1500円
▽あさひ高速印刷出版部 
▽書店に無い場合は著者に直接注文のこと(西宮市社家町1-13 〒662-0974)

吉井貞俊(よしい・さだとし)
昭和5年(1930)、伊勢市生まれ。國學院大学大学院神道学専攻修士課程修了。神社本庁調査部、伊勢市猿田彦神社、兵庫県西宮神社に勤務。現在、西宮文化協会会長。「ホビー大賞グランプリ」受賞。著書に『えびす信仰とその風土』『日本美と神道』他多数。「古地図模写展」「阪神大震災5年図巻展」など展覧会も数多く開催。

イチから知りたい日本の神さま(2)
「稲荷大神〜お稲荷さんの起源と信仰のすべて〜」
監修・中村陽(伏見稲荷大社宮司)


   稲荷大神にまつわる多様な事項・事象をふんだんに盛り込み、その信仰世界の基礎から詳細までが堅苦しくなく理解できる一冊。 「稲荷神はどこから来たか―日本的であり国際的でもある原初の姿―」(上田正昭・京大名誉教授)、「正一位稲荷大明神の誕生―秦氏の氏神から稲作の国・日本の守護神へ―」(鈴鹿千代乃・神戸女子大教授)、「稲荷神と如意宝珠―密教との習合による新たな神格の獲得―」(松本郁代・横浜市立大准教授)など、稲荷神の謎、稲荷信仰の展開過程にせまる興味深い小論考を多く掲載する。 写真やカラー頁も豊富で、お稲荷さんの魅力や、稲荷の名社の概要を知ることもできる。シリーズの第一巻「熊野大神」に続く第二巻。 175頁、2310円。戎光祥出版=電話03(5275)3361。

史料集 「ゆくてのすさび/ 羽黒山日記」
西川須賀雄 (出羽神社・初代宮司)


   崇峻天皇の御子、蜂子皇子の開山と伝え、羽黒修験の山として千数百年の歴史を刻む出羽三山。この神仏習合の一大拠点に140年ほど前、嵐が吹き荒れた。明治政府による「神仏分離」政策である。混乱のなか、社司となった官田別当(復飾して羽黒宝前)は苦渋のうちに病死する。
  新たに出羽神社・初代宮司として着任したのが九州の人、西川須賀雄である。西川は三年の任期をもって離任するが、うち一年余について日記を残す。その筆写をまとめたのが当史料集。神道家として三山改革に奔走するも、その容易ならざる労苦が克明に記される。
   離任にあたり西川は、当日記を羽黒山麓の坊に残して去った。日記を敢えて置いていった真意は分からないという。
昨年8月刊。発行は出羽三山神社=電話0125(62)2355。