神道国際学会が浙江省中日関係史学会と協力して1999年から始まった中国語による『日本思想文化研究論文コンクール』は、年毎に応募作品の質が向上して、審査委員会では受賞者の選考に頭を悩ませている。
本年3月29日には第11回の優秀論文授賞式が、杭州の浙江工商大学日本文化研究楼で行なわれた。式には神道国際学会の梅田善美理事長と梅田節子事務局長が参加し、浙江工商大学日本文化研究所所長であり、浙江省中日関係史学会会長の王勇教授とともに、賞状と賞金を贈った。
今回の応募者は11名で、審査委員会では一等は該当者なしとし、二等賞1名、三等賞2名、優秀賞6名を選んだ。
受賞者を代表して二等賞に輝いた任苹氏と三等賞の陳慧智氏が受賞の喜びとあわせて、これからも日本文化の研究をいっそう深めたいと語った。
授賞式に引き続き、恒例の特別講義が浙江工商大学日本文化研究所で修士課程を研鑽中の大学院生と研究所スタッフを対象に行われ、梅田善美客員教授が『日本人のライフサイクルにおける儀式』と題する映像を主体にした日本人の一生にかかわる儀式を紹介し、梅田節子客員研究員は『森と空間の聖地‐久高島を中心に』と題して、沖縄の宗教文化(原始神道)を論じた。
《王勇理事より報告》
NPO法人「星宿文化芸術センター」について
神道国際学会の中国における活動拠点として、2005年に、関連する諸団体と協力して、浙江省杭州市に設立した「華瀛歴史文化アカデミー」は、『日本思想文化論文コンクール』の運営や『東方美術作品交流展』および日本文化関連の講演会を開催し、また、学術誌『日本思想文化研究』の編集業務を実施してまいりました。
2009 年に念願のNPO法人の申請がようやく認められ、今後はこれを母体として、神道国際学会との連繋をさらに密にし、従来の諸事業を引き継ぎつつ、中日文化交流により大きな役割を果たしたく存じます。ちなみに、NPO法人組織の発足に従い、組織名を「華瀛歴史文化アカデミー」から「星宿文化芸術センター」へ改称いたしましたことを報告します。 王 勇
2010年4月5日
案外知られていないことだが、ロシア連邦共和国では、日本研究にかかわる学者たちの間で神道文化への関心がたかまっている。
1998年ころ、私がロシアの日本研究者と接触を始めたときに感じたのは、ロシアでは、いわゆる「神道アレルギー」あるいは「神道コンプレックス」が希薄であるということだった。前々号の本欄で紹介した後藤新平論で第21回「アジア・太平洋賞」大賞に輝いたモロジャコフ・ワシーリー氏も、拓殖大学日本文化研究所の「新日本学」(平成19年夏号)でそれを裏付ける論文を発表しているし、本紙の七ページの投稿文「ロシアの宗教事情」にもそれが反映されている。
それで、私が訪露して調査したり、日本で研究しているロシア人学者と交流した結果に基づいて、神道国際学会は、ロシアでの神道文化研究拠点として、2002年に「神道国際学会モスクワ代表部」として現地法人登記をした。
開設記念に開催したワークショップ「ロシアにおける神道研究の可能性」では、ロシアおよび旧ソ連圏の日本研究者を招いて、発表してもらった。その会場となったモスクワ国立大学アジア・アフリカ諸国大学では、マイヤー学長の協力と同意を得て、同学内の一室をモスクワ代表部の事務所として提供していただいているし、歴史学部には神道大系全巻を置いて研究者の便宜に供している。
また、それまで日本研究者によって古事記や日本書紀などの神道文献がロシア語に翻訳されていたが陽の目をみていなかったことを知り、代表部の設置と合わせて、ロシア語の神道研究論文集を、本会が資金援助して、『シントウ』二巻本として出版した。幸いに好評で、いまでは重版もされている。また、弘文堂出版の神道ブックレット1薗田稔著の『神道の世界』がロシア語に翻訳されて刊行され、神道入門書として好評である。ロシア語の『日本のまつり』も出版された。
2007年、ロシア連邦での外国法人登記の法律が改訂されたので、モスクワ代表部から「神道国際学会ロシア連邦事務所」と名称を変えて再登記して、現在に至っている。そして、それにあわせて、ロシア語の「神道事典」編集委員会を発足した。3年の月日を費やして、本年3月にロシア国立人文大学出版局から『神道事典―日本の神、神社、儀式』が出版された。その内容については、本紙の二ページで紹介しているので、参照されたい。
近々にロシア語の「神道事典」の出版祝賀会とともにシントウ・ワークショップを開くためにモスクワを訪問する予定なので、ロシアでの神道研究の進捗ぶりを再確認したいと期待している。
神道国際学会はロシア国立人文大学付属東洋文化・古典古代研究所の協力を得て、ロシア語版の神道事典『神道事典―
日本の神、神社、儀式』を出版した。ロシアで神道に関するエンサイクロペディアが出版されたのは初めてのこと。
神道国際学会がこの事典を出版することになったのは、ロシアでの教育機関で、日本文化や神道について科学的・組織的に教育することの困難さに深刻に取り組んでいた教授たちからの強い要望があったからで、出版にあたっては、神道国際学会ロシア連邦事務所のモロジャコワ所長をはじめ、多くの神道学者、日本文化研究者たちが力を結集し、ラダ・フェヂアニナ事務主任がまとめ役を果たした。
事典の構成はアルファベット順に項目を並べる以外に、「史料と文書」「神と神話」「神道における祭」「神社と社の構造」「宗派、思想家、神道学者」「芸術・文学における神道の影響」という6項目に分けられ、神道の多様な面に即している。
この事典の出版により若い研究者が刺激を受け、新しい研究を進めていくことを神道国際学会では希望している。
『神道事典―日本の神、神社、儀式』
I・S・スミルノフ、A・N・メシャリャコフ 編集。モスクワ、 2010年、 310ページ
世界180カ国が参加する上海万博(正式呼称は「2010年上海世界博覧会」)が開幕した。グローバル経済の中で「日の出の勢い」の上海で開催されるだけでなく、13億という世界最大の人口を誇る中国で開催される万博ゆえ、おそらく、万博史上最大の来場者数一億人を突破することは間違いないであろう。そこで、今回は「万博」というものについて考えてみよう。最初に言っておくが、私はかなりの万博マニアである。1970年の大阪万博(正式名称は「日本万国博覧会」)に始まって、1975年の沖縄海洋博、1985年のつくば科学博、1990年の大阪花博のすべてを見物した人はそう居ないであろう。2005年の愛知万博(愛・地球博)にいたっては、『こころの再生・いのり館』というパビリオンまで宗教界に呼びかけて設置し、自らその運営に関わったぐらいだ。しかし、私にとって、年間入場パスまで購入して何度も会場に足を運んだ花博や地球博なんかよりも遥かに私自身に衝撃を与えたのは、なんと言っても1970年の大阪万博であった。
1851年の第1回ロンドン万博以来、160年の歴史を有する国際博覧会であるが、日本が最初に参加したのは、幕末の1867年に開催され、徳川幕府と薩摩藩と鍋島藩がそれぞれ出展した第2回パリ万博であった。そこから派生した「ジャポニスム」は欧州の芸術に大きな影響を与えた。1878年の第3回パリ万博では、蓄音機・自動車・冷蔵庫等が登場し、フランス革命100周年を記念して開催された1889年の第4回パリ万博では、エッフェル塔が建設された。1893年にコロンブスのアメリカ大陸発見400年を記念して開催されたシカゴ万博では、前々回に紹介した人類史上初の万国宗教会議も万博の一環として開催された。このように、人類の「近代史」と万博とは切っても切り離せない関係にある。
その割には、今回の上海万博のテーマ『より良い都市、より良い生活』は、1970年の大阪万博のテーマ『人類の進歩と調和』と比べて、あまりにもミーイズムというか即物主義の臭いがするが、40年前の大阪万博と今回の上海万博とは「共通性」もある。戦後の焼け野原から再出発した日本が、高度経済成長のプロセスで、1964年の東京オリンピックと1970年の大阪万博という二大国家イベントを経て「世界第二の経済大国」にのし上がったことと、文化大革命という「経済的焼け野原」から市場経済へと転換した中国が、2008年の北京オリンピックから2010年の上海万博を経て「世界第二の経済大国」へとのし上がったという「共通性」である。
1970年の大阪万博の時に初めて登場し、その後、われわれの生活で広く普及したものは相当ある。「動く歩道」、「エアドーム(「月の石」を展示したアメリカ館)」、「テレビ電話(なんと「迷子照会用」に使われた)」、「ワイヤレスフォン(携帯電話)」、「電気自動車」、「ロボット」それに、「ガードマンによる雑踏整理」もこの時からだ。また、三洋電機館にあった「人間洗濯機(現在では、老人介護用入浴補助機)」といった代物もあった。また、食文化では、ピザ、ハンバーガー、フライドチキン、缶コーヒー、ヨーグルト等その後の日本人の食生活の定番になったものも少なくない。また、万博会場で怪獣が大暴れする『ウルトラマン(怪獣殿下ゴモラ)』や『ガメラ対大魔獣ジャイガー』を視て、「もうすぐ始まる『万博』ってどのようなものなのだろう…?」と想像を膨らませたものであった。40年を経た現在でも、映画『二〇世紀少年』シリーズのように、大阪万博が大きなモチーフとなっている作品すらあるくらいだ。
このように、同じ世界的イベントとは言っても、わずか2週間しかその開催期間がなく、その上、世界の超一流アスリートたちは隔離された特定の場所(選手村や競技施設内)に居て、一般市民とは容易に交流できなかったテレビ見物型の東京オリンピックと、6カ月間もの長期にわたって、敗戦国日本の一般市民に対して戦勝国(大阪万博に参加した主な国は戦勝国)のコンパニオン(註=当時は「ホステス」と呼ばれていた!)たちが笑顔でサービスしてくれた一般市民参加型の大阪万博とでは、それを「体験」した日本人の数も質も大いに違っていて当然であろう。かくして、「こんにちは〜、こんにちは〜♪」と、世界の国からではなく、連日、日本国中から津波のように押し寄せた「大衆」――かくして、半年間に日本の総人口の半分以上で、万博史上最高の6400万人が来場……。この記録は、40年経った現在でも、まったくもって更新されていない――によって、「万博」という「非日常」世界が共通体験化されていったのである。
大阪万博以前と以後とでは、日本の社会はすっかり変容した。安保闘争をはじめとする政治への国民の能動的な意思表示は消滅し、しかも、皮肉なことに、その3年後(1973年)のオイルショック(石油危機)によって、無制限な「人類の進歩」があり得ないことも知ってしまった。はたして、13億の中国人民は、上海万博を経験した後、為政者たちには思いも寄らないどのような変容を遂げるのであろうか、楽しみである。
本紙昨年7月15日号(第28号)に、南開大学日本研究院が、神道国際学会の助成をうけて、「日本思想文化講座」を開設したことと、及び同年5月19日の開設式で王金林教授が講演会をおこなったことが報じられた。
その後、「日本思想文化に関する理解を深め、中国国内及び国外学界との学術交流を促進し、中国における日本思想文化に関する研究の新たな進展を期する」という当講座の設立趣旨に沿って、この一年間各方面のご協力のもとに、着々と進行し、成果をあげている。
主たる活動としては、『日本神道研究』の著者である王金林教授を始め、中日学界の関係研究分野の代表的学者を該当講座に招聘して講演会を開催した。
『没有経巻的宗教:日本神道』(寧夏人民出版社・2005年)の著者、遼寧大学日本研究所元所長である劉立善教授は、2009年12月11日に「神道より日本文化を見る」という演題でわかりやすく、面白く講じた(写真)。近代日本の天皇制度に詳しい早稲田大学社会科学総合学術院教授の島善高先生は、12月25日に、法律学の角度で近代日本における天皇制度の特徴を中心に、この分野の研究現状、明治憲法における天皇「統治」の意味、近代日本の国法二元体制、GHQによる皇室財産解体、国法の一元化、今後検討されるべき事柄などを系統的に論じた。
また、日本近世史、武家社会論が専門の国際日本文化研究センター教授である笠谷和比古先生は、2009年9月22日に、日本における武士道の起源とその発展を話題にして、講・聴双方も興味津々であった。そのほか、北京大学歴史系教授である宋成有先生、復旦大学日本研究センター教授である胡令遠先生、中国社会科学院世界歴史研究所教授・中国日本史学会会長である湯重南先生など中国国内の学者が招聘され、中国における日本研究の歴史及び現状、或は、戦後の日本における平和発展、新中国の対日外交と中日関係の発展などの問題について講じた。
特記すべきは、2009年10月27日、神道国際学会梅田善美理事長と梅田節子事務局長が、南開大学日本研究院に招待され、「日本人の生活と宗教における神道の役割」というテーマで当講座で講演した。講演後に、日本研究院李卓院長は、梅田善美理事長に「南開大学日本研究院顧問教授」、梅田節子事務局長に「南開大学日本研究院客員研究員」という称号を贈り、神道国際学会から日本研究院へ寄せられた多大な尽力に感謝の言葉を述べた。梅田理事長は、このような称号を与えられたことに対して身の引き締まる思いがすると感謝し、今後の協力を約した。
この講座には、日本研究院の教師と院生だけではなく、本学外国語学院の日本語学部の教師と学生、日本に興味をもつ一般大学生も積極的に参加しており、講座をさらに発展させることによって、これらの学生たちが将来、中日学術交流、日本文化を理解する有益な架け橋になることを期待している。
報告 劉岳兵(南開大学日本研究院副教授)
日本語と英語で盛況な神道入門講座
2月は「節分祭」
2月12日、NYセンターでは、日本語による神道入門講座「節分祭」を開催した。日本の年中行事の一つで、各地の社寺でおこなわれている節分祭の起源や意義を解説したもの。中西オフィサーは、節分祭が中国の唐代より伝わり、九世紀には陰陽師達に奉仕される追儺という宮中年中行事になったと説明した。また室町時代頃から始まった豆撒きによる厄払いという民間習俗と追儺が合わさり、現在では、日本全国の社頭仏閣で行なわれる節分祭へと伝わったことを解説。またオフィサーは日本で神職として節分祭を奉仕した時の苦労話なども披露し、集まった参加者達の興味をひきつけた。
中西オフィサーが斎主として節分の祭典を斎行した後、引き続いて行なわれた豆撒きでは、「福は内!」の掛け声と共に力一杯豆をまいた。節分の豆は、「歳の数だけ食べると福が来る」といわれており、参加者達は一心に福豆を拾い集めていた。
3月は「雅楽」
3月31日には、20名の参加者を得て、英語による神道入門講座「雅楽」を開催した。日本のみならず東アジアの伝統音楽である雅楽の言葉の定義をはじめ、歴史沿革やジャンル、演奏する楽器をはじめ演目などを平易に解説しようというもので、昨年行なった日本語による神道入門講座「雅楽と神道」を、英語で開催したもの。
講義の合間には、中西オフィサーによる笙の生演奏や、映像による社頭での雅楽、舞楽の演奏紹介もあり、アメリカ人を中心とした参加者からは、楽器や演目の由来など多くの質問が寄せられた。また以前の日本語による雅楽の講座に出席された方からも、前回の日本語による雅楽講座の時とは違った角度からの様々な質問があり、雅楽への理解をより深めることができたなどの声が寄せられたほか、参加者の日本人からも、アメリカに来、日本の伝統文化である雅楽に触れる機会を得られてとても良かった等の声もあった。
「国連女性の地位委員会」に出席 東京ではシンポジウム
第54回国連女性の地位委員会「北京+15」が3月1日から12日までニューヨーク国連本部で開催され、世界各国から政府やNGO代表など約6000人が集まった。ISFも国連NGOとして、中西、林原がオープニング、サイドイベントをあわせ3日間出席をした。
今回のテーマは「北京宣言の達成度、北京行動綱領の実施状況とジェンダーの視点形成に果たす役割の評価」で、前回北京で行なわれた第4回世界女性会議から15年を経て各国の実施状況と評価を報告するもの。
世界女性会議は、女性の地位向上を目的として1975年より5〜10年おきに開かれている。
連日各国の代表(パネリスト)がステートメントを発表し、それについて意見交換、質問、また事前に登録をしたNGO団体の発言も認められ、活発な報告や意見が述べられて、議長が制止するほどの情報交換が行なわれた。
初日は会場に入りきれないほどの人が集まり、そのほとんどを女性が占め、世界女性会議がいかに重要視されているかが窺えた。この日のオープニング・リマークスはアシャローズ・ミギロ事務次長が、また11日にはバン・キムン事務総長が行なった。ともに、多くのNGO団体の努力、働きによって得たこの15年間の結果は大きいと感謝しこの結果が男女平等問題だけでなく、これからの開発の持続、経済成長、平和と安全保障問題のキーとなるだろうと話した。
日本からは外務政務官の西村智奈美氏が5日に日本における男女共同参画の実現に向けた取組と今後の方向性を発表した。
最終日には議長によって報告がまとめられ、第55回国連女性の地位委員会のタイトルを「女性への職業促進、完全雇用への平等権利を含む、女性、子供の教育、養成、科学とテクノロジー」と発表された。
一方、東京でも3月8日の国際女性の日にちなみ、大手町の日経ホールで、「平等の権利と機会―すべての人のための前進」と題する公開シンポジウムが開かれ、梅田節子事務局長が参加した。パン・キムン国連事務総長のビデオ・メッセージのあと、国連親善大使の紺野美紗子氏、有森裕子氏、アグネス・チャン氏らが壇上にあがって、「途上国で実際に見て感じた女性や女児の置かれた現状」について、まだまだ多くの問題を抱えていることを訴えた。ついで、男性によるパネル・ディスカッションが開かれ、男性の目でみた日本社会の最新動向と今後の展望について話した。最後に福島みずほ・内閣府特命担当大臣(男女共同参画)が閉会にあたり、これからの世界の女性の立場の向上にむけて団結して働こうと明るく挨拶、満場の拍手を浴びた。
ワシントンDCで恒例の神道紹介のイベント
桜まつりとオープンハウス
4月10日、米国首都ワシントンでの春の風物詩さくら祭りが開かれ、ISFも神道紹介のブースを出展した。1012年に当時の尾崎行雄東京市長が日米の友好を祈ってプレゼントした三千本の桜の苗は、100年近くたった今では見事な花を咲かせるまでに生長し、全米から集まる人々の目を楽しませている。
ISFでは昨年同様、御神座を中心に鳥居や鈴、賽銭箱等を設置して、日本の神社さながらの景観をつくりあげ、多くの人々の目を惹いた。ISFの参加は6回目だが、「昨年もお参りさせて頂きました」「また来年も楽しみにしてます」と声をかける人たちもいて、この活動がアメリカでの神道の紹介に貢献している事を実感した。
会場内のメインステージでは、DC連絡事務所の新宅メラニー主任が司会をし、中西オフィサーが修祓、林原事務主任が浦安の舞を奉奏し、観客から温かい拍手が送られていた。
ついで4月13日には、DC近郊のアメリカン大学キー・スピリチュアルセンターで「シントウ・オープンハウス」を開催した。毎年のさくら祭りの際、神道をはじめとする日本文化を紹介するために開いているイベントで、今年は5回目。
まず社叢学会作成のDVD「日本は森の国」を上映、神道における自然信仰のあり方を紹介。中西オフィサーによる修祓、林原事務主任による浦安の舞の奉奏に続いてNYで書道教授をしている院京まさこ氏が、会場の床をいっぱいに使って書道の実演を行なった。
3歳の頃から書道を続けているという院京氏の見事な筆さばきは、アメリカ人を完全に魅了。書道体験コーナーでは、院京氏の指導で、参加者が見事に一字一句を書き上げると、会場から感嘆の声があがった。書かれた作品は院京氏より参加者にプレゼントされ、あいにくの悪天候だったが、参加者達は大事そうに持ち帰った。
諏訪信仰の重層を実感する 書状や御神器の数々
諏訪大神の御神徳を物語り、先人が残した文化遺産の心を我々に呼び覚ます宝物殿。お諏訪さまに対する信仰の歴史は悠久にして重々たるものがあり、古くからの祭具、尊崇者からの書状など、貴重な宝物を目の当たりにできる。
神事において神降ろしや誓約に鳴らされ、御神体とも見なされた「サナギの鈴(鉄鐸)」、大神の象徴であり、御柱の決定にも使われた「薙鎌」など、さまざまな御神器に古社の重層が窺える。
徳川家康をはじめとした「徳川家社領寄進状」、武田信玄による膨大な「信玄下知状」、御渡り(厳冬の諏訪湖に現れる結氷の盛り上がり)の状況を鎌倉幕府に知らせた「御渡注進状」など、書状や巻物の数々に、代々の為政者が諏訪社をいかに重視し、崇敬してきたかを垣間見ることができる。
なかでも「大宮御造栄之目録」は、鎌倉幕府の執権・北条高時が上社の式年造営に際して、費用調達から造営次第、御柱曳行の分担に至るまで詳細に下知した書面で、御柱祭に関する詳細な最古の文献とも言われている。
「上社古図」「上社御柱祭絵巻」などは、今に継がれる祭事と境内の歴史的な姿を再確認できて興味深い。
また、上社の重要神事のひとつ、十五夜相撲に関する資料や、御祭神の御正体・大祝のうち、江戸末期、歴代最後の大祝である諏訪頼武によって書かれた御神号軸「建御名方命」なども展示されている。
▽開館時間=9時から16時
▽拝観料=500円(下社宝物殿との割引共通券は800円)
▽場所=長野県諏訪市中洲宮山一(諏訪大社上社境内)
▽電話=0266(52)1919
古式の御頭祭を斎行 諏訪大社上社
長野県の諏訪大社上社で4月15日、例大祭に続き特殊神事「御頭祭」が執り行なわれた。
3月酉の日に行われたため酉の祭、また、かつて農作物の豊穣を願って御祭神の使いが信濃国じゅうを巡るに当たって執行されたため大御立座神事ともいわれる。
上社本宮での例大祭式典後、神輿や神旗、薙鎌、槍・弓など行列を仕立てた一行が、約1.5キロ離れた上社前宮を目指し、到着後、前宮にある十間廊で神事を斎行した。
当日は季節はずれの雪も混じったが、多くの崇敬者に一般参拝者も加わって、今年の五穀豊穣を祈った。
「御頭祭」は古式の面影を残し、特殊神饌として、五穀、鳥魚のほか、鹿頭を献饌する。鹿は今では剥製だが、かつては75頭が献ぜられたともいい、その中には必ず耳の裂けた鹿がいて、この「高野の耳裂鹿」は諏訪大社の七不思議ともいわれた。同祭の性格から古い狩猟に関連した祭りとの指摘もある。
御神木「大銀杏」再生への祈り続く 鶴岡八幡宮
3月10日未明、強風で倒伏した鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)の大銀杏は、再生への願いを集めつつ根元から約4メートルのところで切断され、約1週間後には、元位置から約7メートル西側のところに移植された。
樹齢約千年の大銀杏は同八幡宮の御神木。鎌倉を舞台とした幾多の歴史事象と、地元民の暮らしを見守ってきた。県の天然記念物にも指定されており、倒伏翌日には松沢成文知事も視察に訪れた。同八幡宮では、樹木学の専門家の指導も受けながら移植を決断。同時に、元の地点に残った根元に若芽が生えて成長することも期待した。
移植の完了した同18日には大銀杏と若芽の再生を祈願する祭典が神職や巫女ら約100人により営まれ、1000人に及ぶ参列者が見守った。その前日には、再生を祈る参拝者のための記帳所も設けられ、以降の約半月で約30000人が記帳したという。
同八幡宮の吉田茂穗宮司は各方面への挨拶のなかで、「皆様の祈りが再生へのエネルギーになると信じております」と述べている。4月に入って、根の残った元の場所のほうには、ひこばえ(新芽)が多数生え始めているのが確認されているという。
「鎮守の杜」保全、「デイゴ被害」対策を討議
石垣市と南城市で国際シンポ
鎮守の森などの環境保全を考える国際シンポ「消えゆく沖縄のリュウキュウマツとデイゴを救え」が3月13日、沖縄県石垣市で開かれた。日韓台で聖地と森の現状を調査している「アジア鎮守の杜の再生実行委員会」(委員長=李春子神戸女子大講師)が中心となって催したもの。シンポではとくに、デイゴヒメコバチによるデイゴの被害とその対策・回復について、9人の学者らが講演や討議を展開した。
パネリストの一人、韓国・箕青山植物園研究所所長の姜基縞氏は、韓国のマツクイムシ対策について紹介するとともに、木々の荒廃が人間に及ぼす影響について考えるよう呼びかけた。
また、沖縄県森林資源研究センター(名護市)主任研究員の喜友名朝次氏は、デイゴヒメコバチの産卵期とデイゴの成長過程の時間的関係からデイゴ保全案を提示した。
さらに、沖縄県立芸術大教授の波照間永吉氏は、琉球地方の聖地である御獄(うたき)に残る森林と信仰の関係を「おもろそうし」などの文献をもとに解説し、御獄を守ることは島の景観を守ることだと指摘した。なお、別日、南城市でも同趣旨によるシンポが開かれた。
シンポを終えて、開催に中心的役割を果たした「――再生実行委」委員長の李氏は「予想以上に参加者が多く、新聞やテレビニュースでも報じられるなど、社会の関心の高さを感じた。今後、多くの市民の熱意をデイゴの救済に生かしてほしい」と話している。
増える神葬祭──神道式の啓蒙に心を砕く
冠婚葬祭の形態が大きく変化するなか、神葬祭の普及・啓蒙に力を入れている。神職として葬儀執行に赴くほか、葬祭のあり方を関係学者らと一緒に研究中だ。「実際、神葬祭を望まれる方が増えています。肉親の葬儀を仏式でやったけれど、四十九日つまり神道でいう五十日祭から神式に変えて欲しいという方もいらっしゃる」
神葬祭が漸増する背景には、葬儀における意識的な「仏教離れ」があるという。経済成長期を中心に、地方から都市部に移った多くの人たちは自分の出自を年に一、二度、田舎に帰って確認した。しかしその子供世代となると、親や祖父母の故郷や寺への愛着も希薄になった。供養する側の意識も変化している。
「『親を滅多に行かない田舎の寺の墓よりは近場の霊園に入れたい』、『葬儀費用や戒名が高い仏教よりも神道に変えてお祀りしていきたい』。そういう話をよく聞くようになりました」
「宗教者として心のこもった葬儀を」
そもそも宗教者として、現在の葬儀のあり方にいくつか疑問を感じるところもあったという。「宗教者が葬儀社の下請けになってしまった。祈祷料の何割かを戻す仕組みも出来上がっている。僧侶の方も宗旨に合わせて依頼を受け、お経を上げて、さっと帰ってくる。葬儀が一つの形式的なセレモニーになって本当の哀悼の心が見えてこない。亡くなった人に対して『心が籠もっていない』と感じる方も多いと思う」
高齢化と生活格差が進み、供養の捉え方も多様化する今、「直葬」という形態が増えている。病院なり自宅なりで亡くなったあと、火葬の可能な24時間後に火葬場に直行する。ここ10年ほどで目立ち始め、東京では5割近くが直葬の形をとるようになったようだ。
「そうなると、宗教性を込める素地はお骨になった後ということになる。これは、仏教や神道に関係なく、宗教家が葬儀を取り戻すチャンスだと思うのです」。儀式そのものが省力しシンプルになったということは、逆に宗教性や心を取り込む余地が出てくるという発想だ。「亡くなった方、ご先祖に誠意を込めて対峙すること、残った肉親たちに先祖との繋がりとその祀りを説くことは、宗教者の心尽くしとして大事なことですから」
神道式で行なう意義は、『神より出でて 神に入るなり』の、この国の手振り国振りで神界に帰り、祖先神として祀られていくところにある。
もちろん課題も少なくない。仏教で葬儀を行なった先祖らが果たして、改宗を納得するのか。現実問題として、仏壇と御霊舎(みたまや)の、位牌と霊璽の関係はどうなるのか。改宗についてはその土地の慣習に基づいて行なうよう指導しているが「そのようなことは、神葬祭に携わって実際に聞いたり、感じた、皆さんの不安や戸惑いです。しかし、私たち神主が及び腰で、信念がなくてやるのだったら、やらないほうがいい。祭詞を読む資格もない。中途半端ではご先祖や残された皆さんに対して失礼ですよ」
そして新たに、意識の変化の中で散骨風葬≠ェ出現し、親子や人間関係の希薄化で故意に電車の網棚に置かれる遺骨が増えるという事態も発生している。命の尊厳と、御霊を祀ることの重大性を思いつつ、神道と葬祭のあり方を模索する日々が続いている。
『天皇の宮中祭祀と日本人―大嘗祭から謎解く日本の真相―』 山折哲雄 著
「はじめに」に大事な事実としての大前提が示されている。
一つは、天皇の「宗教的権威」がこの国のかたちをつくるうえで重要な役割を果たしてきたこと。もう一つは、象徴天皇制と結びついた戦後民主主義の統治形態が多くの国民の支持を受け、その両立が対立・矛盾の関係から調和・共存の成熟した関係へと変化してきていること。この二つである。
そんな中で、いまでも、天皇制を廃止してもいいのでは、という外部からのまなざしに出合うことがないではないと著者は言う。
本書は、そうしたまなざしが結構あることに気づいたとき、きちんとした答えをしておかなければならないだろうという思いのなかで書かれた論文やエッセイを載せる。再構成にあたって新たな書き下ろしも加えている。
著者は宮中儀式、とくに大嘗祭のなかに、連綿と続いてきた天皇制の核心をみる。
▽279頁、1680円、▽日本文芸社=03(3294)8931
『東京都宗教連盟「第四十回宗教法人運営実務研究協議会」【宗教と公益】講演録』
昨年11月5日に開催された都宗連の研修会を収録する(一部省略)。今回のテーマは「宗教と公益」だった。
駒澤大学名誉教授の洗建氏の講演「宗教と公益」、東京基督教大学教授の櫻井圀郎氏の講演「宗教法人の公益性と地方税」、洗・櫻井両氏に、コーディネーターとして東京都宗教連盟参与の廣橋隆氏を加えてのパネルディスカッション「いま、求められること」を収める。
▽95頁、東京都宗教連盟事務局(日本基督教団内)=03(3207)8768
『戦う者たちへ―日本の大義と武士道』 荒谷卓 著
著者は自衛官退官後、明治神宮武道場「至誠館」の館長に就任し、現在に至っている。
自衛隊勤務時代、自衛隊初の特殊部隊創設を任された著者は、その行動理念を「武士道」に求め、技術、精神両面において精強な部隊を創りあげた。同部隊初の実任務となったのが復興支援に向けた「イラク派遣」。現地の民心をつかんだ日本的な手法は内外から高い評価を受けた。
日本武道の目的は、たんに相手を殺傷することにあるのではないと著者はいう。相手の邪気を清め祓い、相手を仲間とみなし、共存共栄をめざす―その一連の精神を内包したものだとする。
社会的犠牲の精神を嫌うエゴイストを正当化し、結果として理不尽を正すためには戦いも辞さない正義心をすっかり放棄することになった日本の現情を著者は憂える。
自分のためにだけ生き、自分も一部であるはずの自然を破壊し……。その果てにある「滅亡」を回避するための、著者呼びかけの書でもある。武士道精神の神髄に迫るとともに、その背景に流れる日本人の自然観、人間観を語る。そして当然、それらの根底をなす神道の考え方にも触れることになる。
▽198頁、1575円、▽並木書房=03(3561)7062
神社訪問: 英彦山神宮(福岡県) 会員 上山正木
先日、九州の英彦山神宮を訪ねた。実は数年前にも足を運んだが、時間が足らず、奉幣殿のみの参拝であったため、今回はリベンジ、ではなく再チャレンジであった。前回とは異なり、午前中で天気も良く、清々しい雰囲気の中で鳥居をくぐり、石畳の参道を登る。階段は徐々に急になるが、僧坊跡を横目に一キロMほどで奉幣殿に到着。前回は修復中で全貌が見られなかったが、今回はじっくりと拝見。どっしりとして壮大で、なぜか出羽神社を思い出す。英彦山は言わずと知れた修験道の霊場でもあり、共通するものがあるのだろうか。
奉幣殿のすぐ脇の鳥居をくぐり、2.2キロ先の頂上にある上宮を目指す。距離的に大したことはないように思うが、道は険しく、杉の巨木の間を延々と歩く。途中から倒れている木や枯れている木が目立ち始める。中津宮、産霊神社を参拝し、その脇の鳥居をくぐると、突如広い石段の道が現れる。傾斜は緩く徐々に頂上に向かうが、倒木が目立ち、禿山の様相。最後の急な石段を登りつつ頂上を見上げると、まったく予想もしないほど大きくて異形の建物に圧倒される。風雨どころか風雪に耐えるように全面板張りなのだ。何も知らず登ってきたが、標高実に約1200m。どうりで皆さん登山姿だったわけだ。小さな引き戸を開けて中に入り参拝したが(御祭神は天忍穂耳命)、中は真っ暗で神職の方以外は見ることができないそうだ。ともあれ、無事に目的を果たし小休止。周りを観察したところ、登山/ハイキング目的の方が多いようで、ゴミが散らかっているのが残念。
社務所で伺ったところ、5,6年前から宮司さんはいず、また10数年前の台風でかなり木が倒れたとのこと。杉の巨木は江戸時代に植えられたものだそうだが、倒れたものを見るとこれほどの大木にこれっぽっちの根なのかと思うほど根が浅く、倒れて当然という気がした。自然植生に合わない植栽林は脆弱ということなのだろうか。もとはブナの山で、これからはブナを植えるとの話を伺い、全山ブナの紅葉に映える頃、また参拝したいと思い、英彦山を後にした(参拝なさりたい方は、くれぐれも登山のつもりでお願いします。往復3〜4時間です)。
投稿:ロシアの宗教事情 グリエーブ・スピリドノフ
ロシア連邦には、120以上の民族が住んでいるが、その特徴の一つは様々な宗教があることである。現在、ロシア連邦はロシアやカフカス地方やシベリア地方や極東などからなっている。もともとのロシアは小さい国であり、スラブ人はウオルガ川までの地域に住んでいた。現在ロシア人という言葉には、二つの意味がある。一つはスラブ系民族の名前で、もう一つはロシア国籍を持っている人のことだ。
古代スラブ人の宗教は偶像崇拝だった。その主な神は、雷・稲妻のペルンと家畜・富・商売の守り神のウェレスと天と天の火の神スワローグだったが、残念ながら、中世期にキリスト教の影響で消えてしまった。現在、ロシアには4つの偶像崇拝運動会があり、ロドノウエリエとして登録されている。最近、ロシア人はアーリア人種から発生したという学説は盛んだ。
歴史上、ロシアには世紀ごとに新しい宗教が伝来されたといえる。
7〜8世紀のアラブ・カリフ国領土の拡張時に、イスラム教の信者が移住してきた。イスラム教は北カフカスとダゲスタンからウオルガ川地方に広がり、金帳汗国(バトウ汗)、カザン汗国、アストラハニ汗国の国教となった。その後、ウラル地方とシベリア民族の宗教となり、ロシア帝国の時代にはカザン市はイスラム教の中心地となった。
8 〜10世紀にユダヤ教はキエフロシアの隣国であるハザール汗国の国教だったが、スヴャトスラフによってハザール汗国は占領され、キエフロシア国土が拡大された。この時に、ユダヤ教がロシアに入ってきた。
10世紀にスヴャトスラフの息子ヴラヂイーミルにより、ユダヤ教・イスラム教・正教の中から正教が選ばれ、数100年後には、正教はロシアの主な宗教となった。
ロシアに伝来したビザンチン正教は、偶像崇拝が強く正教に影響を与えた。11世紀には仏教がバイカル湖西岸地方に伝来した。
中世紀になると、反カトリック教の国家イデオロギーが発生した。ロシアにとっての敵は、カトリック教の西欧諸国だった。中世紀の特徴として、宗教的寛容がなかったことを強調したい。
16世紀後半〜17世紀前半に、モンゴルと北中国に住んでいたクルムイク人の宗教はラマ教となり、17世紀にはバイカル湖西岸の地方の宗教となってきた。
19 世紀、皇帝のアレクサンドル二世の時代にロシアの宗教は三つのグループに分けられた。一つは国教と呼ばれた正教であり、二つめは寛容な宗教と呼ばれたカトリック教・プロテスタント教・アルメニアグレゴリオ教会(アルメニア正教)・イスラム教・仏教・ユダヤ教であり、三つめ目は寛容できない宗教と呼ばれたドウホボル派・聖像画(イコン画)崇拝反対派・モロカン派・去勢派である。
1917年二月革命後、宗教分割が廃止された。修道院の領土は国有化され、政教分離された。1917年10月革命前には、国民の中では信者が9割だった。1936年からのソ連憲法により、宗教的宣伝が禁止された。1943年に総主教制度が復活し、1945年に正教は法人となった。1943年、中央アジア・カザフスタンイスラム教庁が創立され、色々な問題のために1990年代にバーブ教運動が人気になってきた。
1993年のロシア連邦憲法によると、ロシア連邦は民間社会であり、すべての宗教が平等である。
2009年に『レノワビス』カトリック団体の要請で、モスクワ市のレヴァダ記念分析センターがおこなったロシア国籍を持つ1600人を対象とした世論調査の結果によると、70%がロシア正教徒、6%がイスラム教徒、カトリック教徒とプロテスタント教徒、ユダヤ教徒がそれぞれ1%で、無神教が19%であり、2%が無回答だった。また58%が教会に行かないと答え、1週間に1度行くが3%、1ヶ月間に1回が4%、1年間に数回は19%、1年間1回は16%である。2008年1月におこなわれた6歳から25歳までの若者の世論調査の結果によると、青年の28.7%が神を信じていて、43.5%はある程度宗教的であり、44.3%が教会のミサに行ったことがなく、86.3%が宗教団体のメンバーではない。
私自身はロシア正教の信者であり、ソ連時代に洗礼を受けた。正教徒である私の個人的な意見によると、世論調査結果と違い、イスラム教徒6パーセントより多く、年々イスラム教徒の人数が増えている。
最近、東洋の宗教はとても盛んで、2010年にサンクトペテルブルグ市宗教歴史博物館では、極東宗教常設を開く予定である。そこには神道と仏教を含む日本宗教に関する展示コーナーも企画されている。一般のロシア人は神道という言葉を知っているが、神道という宗教については、ほとんど知らない。宗教歴史博物館の極東宗教常設は神道を知らせる教育機関になるだろう。
グリエーブ・スピリドノフ氏略歴
ロシア国サンクトペテルブルグ市生まれ。国立文化大学で日本語を勉強し、卒業後5年間、エルミタージュ美術館やエカテリーナ宮殿、夏の宮殿などで日本語ガイドを務めた。《日本の祭》のテーマで東京学芸大学に2年間研究留学。帰国後、2003年に美術アカデミー付属画家レーピン記念絵画・彫刻・建築大学で、日光東照宮の彫り物に関する論文により博士号を取得。02年から同大学で日本語教師を務め、05〜07年、宗教歴史博物館で研究員として勤務。現在は日本語教師とガイドの分野で活躍。04〜09年に日光東照宮の彫刻に関する300ページ以上の論文を執筆。関心は《神道と美術》。
DVD『神社新報〈バックナンバー検索〉昭和二十一年(創刊)〜平成二十年』
『戦後の神社・神道―歴史と課題―』神社新報六十周年記念事業
神社新報創刊60周年記念事業として、創刊から平成20年12月までの全記事を紙面PDFおよびテキストデータとして網羅したDVD版(全4枚)が刊行された。検索システムが充実し、キーワードや記事分類、発行日による検索が可能。また細かい文字も拡大ができ、読みやすくもなっている。非売品。
同じく60周年記念の事業出版である『戦後の神社・神道―歴史と課題―』も発刊された。神社本庁総合研究所監修。章立ては「戦後
出発点」「神社と政治」「天皇・皇室」「神宮」「神社本庁・神社新報」「神社」「祭祀・信仰」「神職」「教学・強化」「神道」「その他」。各章とも概括があり、歴史的動向と課題について論ぜられている。年譜・年表・資料を附録している。460頁、非売品。
坂本龍馬の 人の女と謎の信仰 平野貞夫著(土佐南学会代表・イワクラ学会顧問)
NHK大河ドラマの影響と、激変する時代状況が相まって、世はまさに坂本龍馬の大ブーム。龍馬本が溢れかえる中で、異彩を放つ本書は龍馬の信仰面に切り込んでいく。国政の表も裏も知り抜いた著者ゆえか、時代を動かす人物に必ず天命が働くという信念が、独特な歴史観を漂わす。龍馬と同じ土佐人であることも重要で、肌身に実感してきた重層的な精神風土を深部までえぐる。著者が名づけた「歴史深層心理学」によれば、天が龍馬を育てるため用意したのは10人の女たち。とくに千葉佐奈により、神道や道教が入り交じる妙見信仰に基づく北辰一刀流に隠された、何らかの秘術が相伝され、龍馬を時代の寵児まで飛躍させたと推測する。真相を確かめるべく、千葉家の現相伝者と対面。遂に、龍馬が身につけたという妙見神力が明らかとなる。206頁、幻冬舎=電話03(5411)6211