津波災害からの復興にも積極的に提案へ
「町のために、とにかくやってみる。
後悔するより歩み出す」(田村学長)
本会とともに2月の国際シンポジウム「災害と郷土芸能」を主催することになった市民団体「ケセンきらめき大学」(本部=岩手県大船渡市、田村満学長)。
まずはさておき、「ケセン」という名称に首をひねる人も多かろう。「ケセン」とは、岩手県南東部に位置する大船渡市・陸前高田市・住田町の二市一町の総称。三陸海岸でいくと同県の最南端にあたる。「ケセン語」という独特の方言を伝えるなど、地元の人々は「ケセン」なる表現に大きな誇りを持っている。「気仙」でなく、カタカナ表記で自称したところに自尊精神が込められているようだ。
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そのケセンで4年前に産声をあげたのが「ケセンきらめき大学」だ。便宜上、市民大学にくくられてしまうが、世に流行りの、たんなる生涯学習機関ではない。長引く不況、少子高齢化などで町の活気が失われていく中で、ケセンの人たちがケセンの活性を模索し、熱く話し合い、自ら立ち上げた。
現在、観光学部、食文化学部、資源活用学部、地元学部、マーケティング学部の五学部を置く。どの学部でも「地域おこし」がキーワードになる。地域資源を活用し特産品を開発する、観光立地の新たな展開を試みる、環境保全のあり方を考える……。学び、研究し、そして実践することを目指し、老若男女が議論を重ね始めている。
合言葉は「ローカルなものこそグローカルになり得る」。学生(部員と呼ぶ)たちの意気込みは大きい。
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昨年の大津波による未曾有の災害は「大学」の将来にも影を落としたはずだが、田村学長は「町の復興は始まったばかり。これから出てくる復興計画の一つ一つが、みんなのためにどうなのか、良いのか悪いのか、『大学』の中でも議論し、提案していこうと思っている。これから、ますます忙しくなりますよ」と表情を引き締める。
新たな町づくりにおいては雇用の拡大、地場産業の再構築もテーマになるだろうと話す。
「ケセンのために、とにかく、やっていこう。やってみなきゃ分からない。もしかしたら失敗するかもしれない。でも、やらないで後悔するよりは歩み出そう。そういうことですよ」。親指を立てる得意のグッド・サインとともに最後は笑顔で応じてくれた。
第16回国際シンポジウム「災害と郷土芸能」詳しくはこちらへ。
「地域コミュニティー」テーマに
本会が主催する新たなシリーズ・セミナー「お宮トーク」。その第一回「お宮トークin千葉・長南町」が昨年12月10日、千葉県長南町の佐坪八幡神社で開かれた。テーマは「お宮とお寺と地域コミュニティー」。地元の人々ら50余人が参加し、講師の話に耳を傾けるとともに、質疑応答では真剣かつ素朴な質問を寄せた。
「お宮トーク」は各地の主に神社を会場に、講師と参加者が身近になって話をするミニ・セミナー。講話だけでなく、質疑応答や意見交換も気さくにできる座談型の講座を目指している。
初の試みとなった今回は、講師の一人、地元の宮田修氏が宮司を兼務する佐坪八幡神社を会場とした。宮田氏をはじめ、地元の名刹・長福寿寺の住職で、同じく講師を務めた今井長新氏、同神社の氏子総代ら氏子の皆さんの助力を得て開催にこぎつけた。
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講師は宮田氏(熊野神社〈本務〉宮司、元NHKアナウンサー)、今井氏(天台宗長福寿寺住職)、ムケンゲシャイ・マタタ氏(カトリック神父、オリエンス宗教研究所所長、本会理事)の3人。
冒頭、本会理事長の大崎直忠氏は本会の紹介とともに、新たに始まる「お宮トーク」の趣旨にも触れつつ挨拶した。
三講師はテーマに沿って、社寺と地域コミュニティーの関係の大切さを中心に、ときにユーモアで笑いを誘いながら講話を展開した。
うち宮田氏は、米作を主体に共同体が延々とあり続けた日本の歴史にあって、「現在は異常な状態だ」とし、「共同体の機能している所、してない所、皆が日常的に助け合っている所、ない所では、非常時にも差が出てくる」と話した。
今井氏も「人は自分の損得だけでは幸福を得られない」と語るとともに、まさに共同体の育っている仏教的な具体例として念仏講や子安講、盆踊りなどの例を説明した。
マタタ氏は、人と人、神と人との交流の場として神社は多様なコミュニティーとしての意味を持っているとし、祭りの意義とともに「神社は文化資産であり、福祉文化資源である」と述べた。
質疑応答では、「神社やお寺や教会に参拝するときに、どういうところに気をつければいいか」との質問に三講師はともに、「まずは参拝する人に心がこもっていること」が大事だと話し、参加者からは「宗教は何であろうと心は同じだと実感した」との感想がもれた。他にも、年忌明けや法事に絡んだ身近な質問もあり、講師からの丁寧な答えに参加者一同、頷きながら聞き入っていた。
ここ十数年来、毎年、12月に開催される大規模な国際会議に、国連の気候変動枠組会議(UNFCCC)の締約国会議がある。日本では、その「締約国会議」を意味する「COP」の三文字に第何回を意味する数字を付けて「COP 温暖化防止会議」と呼んでいる。そのCOP が、今回は、南アフリカ共和国のダーバンで開催され、2012年に期限の切れる『京都議定書』の当面の間の延長と、2020年からの発効を目指す新たな枠組み合意を目指すことが、すったもんだの末、一応「合意」を見たことになった。
私は、WCRP日本委員会の開発・環境副委員長として、2007年にインドネシアのバリ島で開催されたCOP 以来、ポーランドのポズナニで開催されたCOP 、デンマークのコペンハーゲンで開催されたCOP と相次いでこの国連の気候変動枠組会議に参加してきたが、残念ながら、年々「NGO排除」の傾向が強まっていることは事実である。
バリ会議やポズナニ会議では、国連事務総長や各国の首脳が演説し、各国政府代表が議論を戦わせる本会議場をNGOからの参加者も見学することができた(註=当然、この会議の正式メンバーは「Conference Of Parties(締約国会議)」であるから、発言や賛否を表することができるのは、各国政府の代表であることはいうまでもないが、国益の壁を越えてどの国の主張が温暖化防止に熱心であるかないかを監視し、評価するのは地球市民の代表たるNGOに委ねられた権利である)が、薗田稔先生と共に参加した2009年のコペンハーゲン会議では、NGOの参加者は、事前に国連の指示する通りの参加申し込み手続きを経て会場入口に並んだのに、会場の入場パスを受け取るために氷点下の屋外で6時間も並ばされた。これは、明らかに国連がNGOを排除しようとしていることを意味する。今回のダーバン会議では、各国政府代表が集う本会議場には近づくことさえ許されない有様だ。せっかく南アフリカまで来ながら、皆ラップトップの画面に向かってインターネットを通して情報収集している様は、一種、異様ですらある。
2008年秋のリーマンショック以来、先進各国の指導者の関心は、完全に国内景気の回復と国際金融秩序に維持に向かっており、また、『京都議定書』が制定された1997年当時と現在とでは、その当時、最大の温室効果ガスの排出国であったアメリカが早々と離脱したことは論外としても、国別の排出量では、EUや日本といった先進国の比率は中国やインドなどの新興国の排出量と比べたら極めて小さく、先進国のみに排出量の数値目標を義務づけた『京都議定書』は、今や、完全に意味のないものとなってしまった。おまけに、原発事故の対応で精一杯の日本政府も、当面の電力不足を化石燃料を燃やす火力発電所のフル稼働で補おうとしており、排出規制の遵守は完全に諦めている。
そんな閉塞感の中で、『京都議定書』が決議されたCOP3以来14年ぶりに、国連気候変動枠組会議の会場において、宗教者がこの問題に関する国際パネルを公式に開催したことは注目に値する。12月7日、南アフリカで唯一のカトリック枢機卿であるダーバン大司教のW・ナピエール枢機卿がモデレータとなって、マハトマ・ガンジーの孫であるエラ・ガンジー女史をはじめ、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教・ヒンズー教等から七人の代表が出てパネル討議が開催された。各パネリストは、環境保全に対するその宗教独自の教義的根拠を述べ、温暖化による食糧危機や風土病の蔓延が、途上国の人々の生存を脅かす点からも、宗教者が気候変動の問題に取り組むことが喫緊の課題であると力説した。
私は、モデレータのナピエール枢機卿から突然指名されて、このパネルの「開会の祈り」を務めることになり、東日本大震災に際して全世界から寄せられた見舞いと支援に感謝の言葉を述べると共に、世界中の人々が気候環境を維持することによって安全を共有できるよう英語で祈った。この印象が良かったのか、閉会時にもまた急遽、指名され、「原発の安全性が問われる中で、容易に再生可能(自然)エネルギーへの切り替えを説くのは無責任な態度である。実際には、原発の創り出すエネルギーと同程度のエネルギーを再生可能エネルギーで補うためには、今後相当の期間を必要とするため、その間は、旧態依然たる火力発電をフル稼働して補うしかなく、そのことがもたらす今後何万年にも及ぶ地球上の全生物種に与える影響の深刻さを顧みた上での罪深い究極の二者択一の縁にわれわれが立たされており、宗教者は『少欲知足』の生き方を実践しなければならない」とスピーチした。
神道国際学会ロシア連邦事務所では、「2011年度ロシア語による第8回神道エッセイ・コンテスト」を開催した。
2011年のテーマは、1)「新宗教と教派神道」、2)「日本人の生活における祭り」、3)「天皇のイメージ」の3点。参加者は、ロシアの大学(モスクワ市、ノボシビルスク市)から学生・大学院生が六人、キルギズの大学から学生が2人であった。
エッセイの審査委員会はメシャリャコフ教授(審査員長、ロシア国立人文大学東洋文化・古典古代学院)、シモノワ教授(モスクワ国立総合大学付属アジア・アフリカ諸国大学日本史・文化学科主任)、モロジャコワ教授(ロシア科学アカデミー東洋学研究所副社長)で構成された。
審査員会による結果は以下のとおり。
1. Mr. Rodin Stepan(ロヂン・ステパン、モスクワ市、ロシア国立人文大学東洋文化・古典古代学院): 「天智天皇と天武天皇」(「天皇のイメージ」)
2.Mrs. Nesina Alyona(ネシナ・アリョナ、ノボシビルスク市、ノボシビルスク国立大学):「神道における紙の役割」(「日本人の生活における祭り」)
3.Mrs. Gakh Sofia( ガフ・ソフィア、ロシア国立人文大学東洋文化・古典古代学院):「神の概念の変化:「日本商人の始」という黒本に基づいて」(「日本人の生活における祭り」)
11月29日(火)にロシア国立人文大学でエッセイ・コンテストでおこなわれた授賞式には、審査員、受賞者並びに研究所所長のスミルノフ教授を始め、東洋文化・古典古代研究所の教員、日本学者、日本史・日本文化を学んでいる学生たち、およそ30人が出席した。
受賞者には賞状・賞金(一等賞=$1000、二等賞=$500、三等賞=$300)が贈られた。出席できなかったロシア連邦事務所のモロジャコワ所長に代わり、審査員長のメシャリャコフ教授が受賞者に証明書と、事務所で出版された「神道:日本民族の宗教」、「2004−2009年の受賞者のエッセイ集」を記念品として渡した。
また、ロシア連邦事務所は12月9日(金)午後の4:30から6:30まで、モスクワ市立教育大学付属外国語大学で、神道セミナーを開催した。同大学で日本語を勉強している学生を対象にしたもので、講師はモスクワ国立大学アジア・アフリカ諸国大学の教授のA.R.サドコワ博士。日本神話・日本民間伝承を専攻しているサドコワ博士は「絵馬」をテーマにして、神社に祈願した願いが叶った際、そのお礼として奉納する絵馬について語り、自分自身が持つ絵馬や神社の写真をたくさん見せた。参加した17人の学生の中には日本に行った経験のある学生たちもおり、神社・絵馬について感想を述べたり、ロシア正教の場合と比較したりした。
盛況な国際七五三行事 NY、DCで開催
10月22,23日の両日、ニューヨーク市ジャパン・ソサエティの大講堂で恒例の「国際七五三神事」が、また翌週の29、30日にはメリーランド州の青少年教育施設ナショナル4HセンターでワシントンDC地区の国際七五三神事が執り行われた。
国際七五三が行なわれるのは、NYでは12回目、ワシントンDC地区では5回目。今回は両地区合わせて過去最多の、200名近くの子どもを含めたおよそ600名の参列者があり、盛況に終えることができた。
その他に、日本語新聞やサイトなどを見て応募してきたおよそ20名のボランティアの方が、ISFが所有する着物を着付けたり、会場案内や受付、更には巫女として祭典を奉仕した。
斎主の中西オフィサーが参列した子供達の末永い幸せと健勝を祈る祝詞を奏上。その後、子ども達の名前を読み上げると、子供達は家族と共に順番に大講堂に設けられた祭壇の前で、二拝二拍手一拝でお参りし、巫女から千歳飴を笑顔で受け取っていた。
本年も参加費の一部がユニセフ(国連児童基金)に寄付され、世界中の恵まれない子供達の教育や生活の為に使われる。
DCの日米協会で神道のレクチャー
10月28日、中西オフィサーは首都ワシントンDCの日米協会で、「神道―その地域社会における役割―」との題でレクチャーを行った。
日米協会は毎年四月に開かれる「さくら祭り」を主催しており、ISFは、毎年神道を紹介するブースを出展している。今回はその縁で、神道の地域社会における役割について紹介して欲しいとの、協会側からの働きかけで実現したもの。
レクチャーでは、オフィサーが日本の地域社会における氏神様の役割を説明し、日本全国の八万社にも及ぶ神社は地元の氏子が中心となって、その地域の伝統を守っていると述べた。
また昨年3月の東北大震災の後、被災地で氏子と神職が協力して境内地でお祭りを催行し、それが被災地の人々を勇気づけた話や、被災地の神社や氏子区域で清掃したり、倒壊した社殿を整理して仮殿を建てる等の神道青年会の活動を紹介した。
参加者からは、「人々の幸せを奪った大災害を目の当たりにしてもまだ自然を崇拝できるのか」「自然災害で神社が破壊されても、なお神を信じることが出来るのか」などの質問があがり、オフィサーは「荒ぶる神や自然を畏怖してきたのも神道における信仰形態の一つである」などと回答につとめた。
マイアミ市での新嘗祭と七五三神事
11月13日、フロリダ州マイアミ市のワトソン島にある市村日本庭園にISFが招かれ、中西オフィサーが新嘗祭・七五三神事を奉仕した。
同庭園では季節ごとの年4回、日本文化を紹介する行事を開催しており、ISFが同庭園に招かれるのは昨年11月の新嘗祭・七五三神事、今年5月の雅楽演奏に続き3回目となる。
庭園には恒例の書道、折り紙、生け花などが体験できるコーナーや日本の伝統工芸、着物、日本食などのブースが立ち並び、特設ステージでは太鼓演奏やバイオリンやクラリネットなどの合奏、さらには紙芝居などが行われた。
神道の祭壇は、その特設ステージに設けられ、中西オフィサーが斎主となって午前中は新嘗祭、午後からは七五三神事を二度、奉仕した。新嘗祭では同庭園のリチャード会長が参列者を代表して玉串奉奠を行い、また七五三神事では参列したアメリカ人や日本人のお子様が、ご家族の方と共にそれぞれご神前で二拝二拍手一拝の作法で参拝した。
七五三神事の後は、祭壇を前に参列した子供達との集合写真があり、祭典後に千歳飴を受けとった子供達がそれぞれ笑顔で写真におさまっていた。
進 士 五 十 八(東京農業大学名誉教授・前学長)
薗 田 稔(神道国際学会会長)
日本庭園」と「神社」に社会づくりや生き方へのヒント
アニミズム、里地里山・里川里海、祭りの共同体、境内の清々しい気配……
「大震災」から間もなく一年。あの日を境に、生き様を真剣に考え始めた人が多いと聞く。「我々を取り巻く自然とどのように関わって生きていくべきなのか」「地域にあって、もっと共同精神を大切に暮らしていくべきなのではないか」……。私たちの先祖は、こんな問いには、問うことすらせず、当然の心得を答えとして、生活していたような気がする。
ともあれ我々は迷走する現代人。これらの問いにも関連して、「日本庭園」「神道」をキーワードに話し合ってもらった。
柳に風>氛沍テ代人はしなやかに自然を受け止めていた 薗田
かつての日本にはダイナミクス・バランスが存在していた 進士
薗田 進士先生は国や自治体の環境や景観に関する各種審議会の委員を数え切れないくらい引き受けていらっしゃる。「よくこなしてるなぁ」と感心しているのですけれど。
進士 景観審議会では、開発計画に対して意見を言うわけです。
それにしても、役所や企業やゼネコンは環境軽視、景観破壊の計画案を、言い訳も含めて、平気で出してきます。この間は、新宿の審議会で神社境内に高層マンション二棟を建てて、その儲けで本殿を建て替えようという案件が出されましたよ。
私は造園学、景観政策が専門ですが、そもそも庭園を造るというのは、美しい理想郷を作り出すことなんです。仏教では極楽浄土を、キリスト教ではエデンの園をつくる。古代ギリシア人はアルカディアを、中国人は桃源郷をめざした。神様を感じる荘厳、生命の尊さを感じる鎮守の森という日本の神社空間も同じことです。
理想的な素晴らしい世界を創造するのが造園家の仕事なのだけれど、今は、悪い案件をどうやって退治するか、そういう仕事ばかりで嫌になっちゃう(笑い)。
薗田 確かに鎮守の森も一つの理想郷であるはずですが、現代社会では森や御神木を守るのも大変です。都市部に限らず、枝をバッサリと伐り落とさざるを得なかったり、とにかく防ぎきれなくなっているのですよ。
進士 昨年の大震災と大津波の被災地域にある式内社一〇〇社のうち、傷ついたのは二社だけだという神社本庁の調査結果を見ました。古代人は自然の力をよく心得ていたのだなと実感しました。
それに対して現代人は、自然を人智で押さえ込むことができると思っているのですね。津波で壊れた高さ七メートルの防潮堤を、今度は十四メートルにするという。倍にすれば、次は防げるという発想です。
私は日本学術会議の被災地復興グランドデザイン委員会のメンバーで現場を見ましたが、海岸線のすべて、遥か彼方まで防潮堤があって、これを倍にすると四、五階建てのビルが延々と海岸線にできるようなものです。太平洋が目の前にありながら、住民は、海を見ずに防潮堤のコンクリートを見て暮らすわけです。
薗田 海と親しみのある集落が海と分断されているなぁ、と感じる眺めはこれまでにもありましたね。防災ももちろん大事だけれど、やはり景観破壊でしょう。
大地震に何度も見舞われても、古代の街道などは津波の押し寄せる少し内側に配置されている。古代人は分かっていて、防災というより除災というか、「柳に風」のように、しなやかに自然を受け止めていた気がする。
その意味で、被害を最小限にするという発想が大切だと思うのですが、お話をうかがっていると、現代人は相変わらず経済優先のようですね。
進士 自然と人間との付き合いというのは持続的で、継続的できるものでなければいけない。エコロジーもエコノミーも、両方がうまくいくダイナミクス・バランスが基本です。かつての日本にはそれがあったのに、経済最優先思考がバランスを破壊した。
日本の庭園は家の外に庭という自然をとり込む外庭型 進士
日本は豊かな森林環境をとり込んで故里や社会を作った 薗田
進士 エコノミーとエコロジーの更に上にある、先ほども言いました「理想郷」と「美しい世界」を目指すのが、「庭園を造る」行為です。「真善美」というけれど、この真善美を追求するのが人類というものですから。
庭園つまり、ガーデンは、ガン、つまりガードとエデンの合成語ですから、囲まれて安全安心に守られて、その中に飲み水、鳥や魚、果実の緑が確保されている悦楽の園です。基本は世界共通ですが、しかし、それぞれの国の自然風土の下で、かたち、色々特色があるのは当然です。
明治の文明開化で、西洋文明の公園というものを導入することになった。でもやはり、日本風土と日本人の心に馴染むよう文化としての公園となっていったのです。去年五月に出しました私の本『日比谷公園』で設計者の本多静六という林学者の、日本化への工夫と思想を述べましたが、和魂洋才でした。名古屋の鶴舞公園とか、大阪の四天王寺公園とかにはそれがまだあったわけです。
薗田 庭園は囲まれている。そこに理想世界を作るというお話ですが、日本人の自然との関係を考えると、自然と一つになりながら理想郷をつくる、またコミュニティーをつくるという発想があって、むしろ開放的なところもある気がする。
そのあたり、西洋との違いに関して、いかがですかね。
進士 庭園史でみると、世界には「外庭型」と「内庭型」があります。家の外に庭という自然をとり込む日本式と、建物で外をしっかり囲って中に庭の自然をとり込むスペインのパティオ、イスラムの中庭式などです。おそらくそれは、治安とか安全保障の面、それに食料など生物的生産性の面があるのではないですか。敵国が隣接していて、いつ奴隷にされるか分からない国は外を固めないと生きていけないし、その逆に、日本のように自然豊かで適正密度、食べ物の生産性の高い国では、違います。
結局、戒律の厳しい一神教世界と、八百万の神様が穏やかに同居できる世界という違いが出てくるでしょう。
都市構造にしろ、日本の場合、城壁がない。平城京や平安京の場合も、囲むといっても山並みでやわらかな囲みで、観念的でしかないし、環濠集落はあったが、城壁都市はなかった。
自然と連続し、融和し共生してこれたというのは、日本の自然風土の生産性の高さという点がやはり大きいと思います。
薗田 社会の作り方が基本的に違いますね。とにかく地上に人間が集落なり社会を作るわけだから、本来的には周りの自然を拒否し、先生のおっしゃる囲まれた、住みやすい場所を作らなきゃならない。これはつまり都市文明なんですね。大陸的な発想といっていい。
日本の場合は、周りの山水を人間の社会に取り込んで、そして社会を作っていった。
したがって神の発想だって違う。天上の神の厳命を受けて、地上に人間社会を作る発想と、地上の奥まった所にも神様はいらっしゃって見守っているという発想ではまったく違うのですね。
だからある意味、日本には都市文明なんて無かったのかもしれないと思ったりもする。都市らしきものは中国の真似をして作ったけれども、そのときでさえ、周囲の自然を拒否した都市形態を作ったことはないですね。
こうした日本のあり方というのは、世界的に環境問題とか共生の構築が叫ばれている今の時代、非常に貴重です。
進士 ええ、そのことに日本はもっと自信を持つべきですね。日本の国土の四割を占めるのが里地里山。二次自然である里山や雑木林では、ひとと自然の持続的な付き合い方のノウハウがいっぱい。とても上手にやってきた。これは外国に大いにアピールできるものです。環境省がCOP で発信したSATOYAMAイニシアチブ。私もお手伝いした里地里山保全活用行動計画(英語版・二〇一○年)。これも検討会の座長でしたが、生物多様性地域連携活動法の政府方針など。みんな世界にアピールしたい内容です。
薗田 欧米とは違って日本では、庶民そのものが、鎮守の森も含めて、常に豊かな森林環境を取り込みながら、自分たちの故里や社会を作った。まさに海外に発信できる生き方だと思います。
進士 ですから、東北の震災復興もそうだけれど、鎮守の森も含めて、新しい街づくりの中に、近代的な発想だけでなくて、古代から日本人が持ってきた自然観や生活観を取り入れていくことが必要です。里地、里山、そして最近は里川、里海という。人間生活に引きつけた自然ということ。そういう文化的景観や歴史的景観も重要です。そうしたものを大事にしていく社会づくりの発想が見直されなければいけませんね。
東京は多細胞社会──道筋と集落とお宮の村落単位は残っている 薗田
神社の祭りへの参加がコミュニティーを機能させる 進士
進士 里地里山というのは農村ですが、里くらいの生活圏は、圏域の隅々までを自ら熟知していて安心でき、人が穏やかに生活できるのにピッタリのスケールなんです。コミュニティーと呼ぶにふさわしい程好い大きさなのです。
それにくらべ東京は巨大になり過ぎた。東京都の景観審議会副会長として、私は「景観マスタープラン」を私のアイデアの多摩川、隅田川、国分寺崖線、玉川上水など景観基本と呼ぶ座標軸によって幾つにも分節化して、地域らしいまとまりを形成するように工夫しました。
薗田 大都市圏については、例えば東京というのは、じつは多細胞社会なのではないかと私は思っているんです。かつては、先生がおっしゃった意味での里というべき村落がたくさんあったのが、この単位細胞が膨らんで、くっついて、大きな大都市になってしまった。都市化の中で一つ一つの細胞が不明瞭になってしまったのではないか、と。
ですから、東京だって今でも、よく観察すると単位細胞が分かります。つまり道筋があって集落があって、その奥のちょっとした高台に、お宮がちゃんとある。田舎の村落構成と変わらない。
今では都市化で巨大ビルやマンションができたから、一つ一つの細胞も破壊され、カオス状態になってしまったけれど、集落単位はかろうじて残っていると思うのです。それは取りも直さずコミュニティー単位なんですね。
進士 ですから巨大東京だって昔からのコミュニティーが、たとえば神社の氏子などと祭りでしっかり再生すれば何とかなる。
私は深川で育ったのです。深川の八幡様、つまり富岡八幡宮の氏子の地域は昔の深川区で私も何回か例大祭の御輿をかついだ。深川の北に行けば、神明宮の氏子。もう少し北に上がれば本所から向島。白鬚神社がある。同じ下町でも、それぞれ少しずつ気質が違う。それがほんとうのコミュニティーですね。
それを東京は無機質になってしまったとマスコミは書く。けれど東京にも祭りのあるところにはちゃんとコミュニティーが生きていて、なんとか機能している。
薗田 それを私は多細胞と言ったわけです。
進士 ええ。それを機能させるのは、祭り体験。神社の祭りに参加するというのは大きいですね。祭りによってコミュニティーの連帯を確保できる。私の経験からもそう思いますね。
コミュニティーのコアにあるのが神職──その自覚で行動を 進士
神職とはお宮を守り、コミュニティーを守る「神役」である 薗田
進士 その意味で、神職の方たちもコミュニティーのコアにいて、その社会的意義も極めて大きい。そう自覚して行動してほしい。これ以上、東京が壊れないように、しっかりしてもらわなければ(笑い)。
薗田 確かに神職の見識が問われている(笑い)。コミュニティーを神職が一所懸命、作らないといけない。そのための神職でなければいけない。
進士 宗教法人としてマネジメントをしっかりして、持続的に神社を守ることも大事。だけど豊かな森を伐ってしまったり、神域に高層マンションを作ったり、本殿の真後ろに布団やオシメが干してあっても平気だというのは……。誰がその神社を拝みますか(笑い)。
薗田 神域というのは、やはり言葉にならない気配、雰囲気ですからね。神道は文化であるというのは、ある意味、そういうことなのです。それは大事なポイントで、どんなに質素でも清らかで清々しい。そこに一つの文化としての神道のあり方があると思います。
その文化とコミュニティーをキチッと守れるかというのは、神職の職務だと、自戒を込めてそう思います。
進士 そうですよね。そういう神域構成計画が重要だと思うので「社叢造園学」を私は提案しているのですから。どうも、神職の一部の方たちは神社を私物だと思っているのではありませんか?
薗田 それは、家業だと思ってしまっているんでしょうね。
進士 ああ、家業、わかりますね。
薗田 社家という言い方がありますが、代々その境内に住んで、お宮を守っていくというのは、確かにこれは歴史的に、なかなか苦労のいることだったのですよ。
進士 それは、そうでしょうね。政府の保護もなくなり、氏子組織も弱体化してますし。大変なのは分かります。
薗田 戦災もありましたしね。しかし現代では、悪い意味でお宮を私物化し、自分たちが生きていくための権利だと思っているような、本末転倒になっている場合も多い。
神職という言い方に、少し誤解があるのでしょうね。近現代の思考でウェーバー流の職業論になってしまっている。
進士 神職というのは、宣教師や牧師、またお坊さんとも違うでしょう?
薗田 ええ、神職は、言ってみれば役割ですね。神役です。一般の人たちがお宮を守ることができないから、任せられてお宮の面倒を見たのが神主です。歴史的にはそういうことです。お坊さんは一応、出家ですけれど、神主は俗にあって俗を超えるのですよ。
進士 神主さんの個人的見識を慕ってお宮参りするわけじゃないでしょうから。
薗田 神職として恐縮させられる話が多いですけど、庭園文化と神道の関係などもお話していただかないと(笑い)。
進士 日本の庭園が、基本的に神道と重なるのは、古代の深いアニミズムに起因した点でしょう。神籬、天津磐境、瑞垣。これらは緑と石と水を象徴しており、しかも空間的には囲繞性を持っています。これが基本的に庭園なのです。
日本人のアニミズム的な自然観から、自然石など自然のままの素材にはある種、霊性を感じる。草木国土悉皆成仏は、仏教ですが、日本人は大自然のすべてに神仏を感じるわけです。庭に自然石を三石組んで三尊石組という。阿弥陀三尊になる。浄土の庭もできていく。道教的な不老不死、仙人の住む島が蓬莱島、鶴島、亀島になる。
自然宗教的なものを受け入れる素地が日本人の中にアニミズム的なものとしてあり、その延長で素材を選んでいく。これは日本独自の感覚です。石を使って亀島を作る。自然石が六つ。亀頭石、亀尾石、そして足が四つ。島には常緑で永遠性のシンボルの松。松と言えば影向の松。神が降りる拠り所ですね。
大岩に注連縄めぐらしたものが天津磐座。石組の大本ですよ。そう考えていくと、日本の庭園は、神様が造っているようなものです。
中世になると浄土庭園や、禅の庭が出てきますし、近世以降になると庭園に中国の湖や山を表現してミクロコスモスをつくるようになりますが、古代の庭園は、やはり神の世界、池も常世に近い発想です。日本庭園は美しい自然共生世界を目指してきた技術ですが、それを社会化すれば社会技術ともなります。
薗田 そうした自然観から神社界は今後、どうしていくべきか。やはり私は新しいコミュニティー作りに関わらねばならないと思うのです。
コミュニティー再生のヒントになるのは、自然エネルギー共同体というかたちですね。化石燃料も使えない、原子力も大変だとなると、コミュニティー単位で自然エネルギーを自足していく発想が必要だと思っています。太陽の熱や光の恵み、海や川などの水の恵み、風力や地熱の恵みなど、どれも神々の恵みですから、それらを住民たちが氏神を拠点に連携してスマートグリッドの機能を発揮すれば、そのまま安定して自立したエネルギー共同体を構築できるのです。
進士 日本庭園文化は、大理石の彫刻や噴水の西洋庭園とは全くちがって、自然―土、石、水、緑で美しい環境をデザインしてきた。だから、奥山から里山、鎮守の杜、里地の農業体験、自然食、スローフード、医食同源と、これは正に自然共生社会へと連続する発想である。私の本『グリーン・エコ・ライフ』(小学館)の提唱につながるのです。共生ということで言うと、農ある暮らし、身近な郊外の菜園、もっと感じたければワイルドな原生樹林へ入るのもいい。
日本人には自然神を素直に受け入れる素地があるのだから、自然の破壊力も認めた上で共生していこうという自然を畏敬する精神をもっていけると思うのです。
(東京・椿山荘にて)
進士五十八(しんじ・いそや)=日本学術会議第22期連携会員、東京農業大学名誉教授・前学長、農学博士。これまでに日本造園学会長、東南アジア国際農学会長、日本都市計画学会長などを歴任。現在も、政府の自然再生専門家会議委員長、国土審議会特別委員、各市区における環境・景観系審議会長など役職多数。井下賞、田村賞、読売農学賞など表彰多数。紫綬褒章受賞。主著に『アメニティ・デザイン』『農の時代』『日本の庭園』『グリーン・エコライフ』など。
薗田稔(そのだ・みのる)=神道国際学会会長、秩父神社宮司、京都大学名誉教授。
鎮守の森や神道など日本の宗教・自然観を研究
社会科学的な客観的姿勢を貫いて『千と千尋の神隠し』―の映画を見たときに日本の宗教に興味をもったという。初めて来日したのは今から12年前の15歳の時、5週間の福岡でのホームステイだった。日本の友達に誘われてこの映画を見に行った時、「まだ日本語はあまりわからなかったが、スクリーンの中で人間の世界と、もう一つの世界があり、日本の自然と神についての物語だと理解した」。さらには「ホームステイ先の家族は、ほかの家庭とは違い、熱心に毎日祈りをささげている家庭で、その姿を見ていたのも興味をひかれた一因」と語る。
ホームステイ中も神社や寺院に参拝してみたが、何が違うかわからず、不思議に思った経験もある。
ロッツ氏は、自国オランダのライデン大学で宗教学、日本語学、文化人類学を専攻、この間に早稲田大学に一年の留学経験があり、日本語に加え比較宗教などを学んだ。修士課程ではロンドン大学東洋アフリカ研究学院(イギリス)の日本宗教研究センターで本格的に日本宗教、自然観を研究対象とし、修士論文では戦前の日本のキリスト教について論じ、現在はオスロ大学(ノルウェー)博士研究員で、本学会理事のマーク・テーウェン教授に師事し、幅広い研究を続けている。
昨年開催されたシントウ・エッセイ・コンペティション(神道国際学会が主催する外国人研究者による神道の英語論文大会)に、神社の森である『鎮守の森』をテーマにした論文で応募し、最優秀の成績を収めた。
日本の様々な文化や宗教、環境など調査研究をする上で、「私は宗教学者であって神学者ではない、神について直接研究するのではなく、神についての物事・儀礼・思想などを社会科学的に研究している」と、神の存在や性質よりもその周りの要素に重きをおいている。今回の鎮守の森に関する研究論文を執筆する際にも、以前から訪れていた、京都の上賀茂神社、下賀茂神社、神宮、熊野など多数の森をフィールドとして研究を重ねた。論文の中で、 「鎮守の森」は生態的にも重要なものかもしれないが、それだけではなくシンボル的にも強い意味があり、理想的な先祖時代と現代が鎮守の森を通じてシンボル的な関係で結ばれていると思うと記している。またそれぞれの神社に務める神主の森に対する意見の不一致や、森自体の統一性のなさがおもしろいとも語っている。
「鎮守の森」や「現代神道」についての英語の資料が少ないことを問題視して、今後はこうした研究を進め、神道や日本の現代社会を国際的な知識にすることに役立てればという思いを持つ。他にも、その他の宗教や過疎化、自然環境などの諸問題を研究したいと意欲をみせている。
『宇宙の大道を歩む ― 川面凡児とその時代』 宮崎貞行
5年ほど前に、私は稜威(みいづ)会の禊の合宿に参加したことがある。
稜威会というのは、明治大正の霊覚者、川面凡児が創設した古神道の団体である。学校教育で習わなかった不思議な霊的世界があることを、この合宿で知り、それ以来、川面の事績を知りたいと思うようになった。
調べてみると、川面は、関東大震災を一年前に予告し、日米戦争は50年待てと呼びかけていたことを知った。彼は、宇佐の御許(おもと)山で修行し、独自の「イメの境地」と「フトマニの境地」を開発し、諸神霊と交流するほか、遠隔透視、幽体離脱などの霊能を習得していたのであった。
その神秘体験に基づいて、古事記などの古典を再解釈し、「日本民族の宇宙観、原人観、霊魂観」について膨大な著作をあらわしていた。その中で、明治政府の神道習俗化政策に抗して、「神道は宗教である」と強く主張し、「神人不二」の境地に達するための身体技法を説明し、これを「奈良朝以前の太古神道」として普及させようとした。また、天皇の神学的性格を明らかにし、スメラミコトの自修と他修の「魂ふり」についても言及していた。かれは、本居宣長や平田篤胤が「新しい古(いにしえ)」を発見したのとは別の方法で、「新しい古」を発見したのである。
敗戦後、川面は、「国家主義イデオロギー」の神道家として誤解されてきたが、じつは、彼は、神道のカミを普遍的な性格を持つホログラフィックな「全一神」ととらえ、その中にキリスト教も仏教も包摂する「全神教」を提唱していたのである。それを「宇宙の大道」とも呼んだ。本書は、川面の思想と行法を当時の時代精神を背景に、多面的な角度から、再評価してみようとしたエッセイである。
▽472頁、2800円+税 ▽リフレ出版=(03)3823―9171
宮崎 貞行(みやざき・さだゆき)
昭和20年伊予国、西園寺御荘生まれ。東京大学卒業後、官庁に奉職、その後大学教授を経て、現在文筆と呼吸に専念。世界に矜りうる日本人の気品と気概の源泉を尋ねる旅を続けている
『儀礼と権力 天皇の明治維新』
皇學館大学現代日本社会学部教授 新田均
本書は、著者が平成7年から21年までの間に執筆した近代の天皇と神社に関する八本の論文をまとめたものである。
序章と第一章から第三章では、儀礼論的見地から、明治二年の明治天皇の伊勢参宮、文久三年の将軍上洛と天皇への拝謁、慶応四年の誓祭儀礼、明治天皇が行った外交上の儀礼に焦点を当て、儀礼の意義を強調している。儀礼に関する諸説に則って著者が光を当てる諸事実からは、確かに、政治的決断によって決定(あるいは変更)された権力関係の明示、強化、固定化という意味で、儀礼の持つ意義をこれまで以上に重視する必要性が見えてくる。
第四章から第六章では、「天皇との関係によって新たに意味づけられる近代初期の神道、近代の神社を取り上げる」(p18)として、神仏分離、大国隆正の天主教観、日吉神社の山王祭が論じられている。この議論を通じて、読者は、近代において、「神道」「神社」「祭祀」に多くの「創出」があったことに気づかされるだろう。同時に、その「創出」に対する著者の認識が、彼の前提としている「事実」と、必ずしも一致していないことにも気づかされよう。
たとえば、著者は「近代国家が神社に押しつけた祭祀は、近世と違って、すべて万世一系の天皇を正当化するためのものであった、という事実」(p7)を前提として、「万世一系の神話を祭祀によって語ることこそ官幣大社日吉神社の新時代の役目だったのだ」(p252)と断定する。ところが他方では、「日吉大社の存在理由と言っても過言ではない」(p206)山王祭は「近代国家のもとで創出された神話として、万世一系と全く次元が異なる」(p254)と述べている。
補論では、靖国神社を「記憶の場」として捉え、そこで語られる歴史は「きわめて偏った、歪曲されたものである」(p264)と主張している。
その論証過程において、靖国神社が語る歴史に「取捨選択」があることが指弾される。他方で、著者が重視する「痛ましい記憶」「敗北の記憶」「加害の記憶」「戦争の空しさの記憶」や、戦後の改革が民主的で平和な日本を築いたという語りについては、なんら「記憶の取捨選択」も、「神話化」も想定されず、検討なしに「史実」と認定されている。
さらに、著者が靖国神社の記憶を批判し、「国立追悼施設」を支持する際に依拠している論文については、靖国神社に適用しやすいように、内容が「創出」されている。
「儀礼、展示、テキストによる歴史記憶をどのように理解すればいいのか。フランスの歴史家エリック・サントナーの戦争記憶研究が重要な手がかりを与えてくれるように思う。サントナーの研究はフランスで戦後間もなく建てられた博物館、記念施設を主題とする。ドゴール派が建てた博物館もあれば共産党が建てた記念施設もあるが、共通する特徴は、フランスの戦争体験が生産した『トラウマ』、つまり、敗北、占領それに協力(コラボレーション)という精神的外傷を抑圧する働きをする、と彼は言う。サントナーは歴史的トラウマの痛みを受け入れることを拒む、あるいは受け入れることができないのは、戦後のフランスばかりではもちろんなく、多くの戦後社会がある程度共有する現象だとする。戦争記憶が耐えるにはあまりに痛すぎるためそれを抑圧し、抑圧するための記憶戦略を演じる、という。『神話作成』であるこの記憶戦略を、サントナーは『語りのフェティシズム』と名づける」(pp279-280)。
この語りの中で事実と合致するのはサントナーが「語りのフェティシズム」という術語を用いているという部分だけである。ウィキペディアによれば、エリック・サントナーはアメリカ人学者で、シカゴ大学ドイツ研究学部で近代ドイツ研究を担当する教授である。彼の著作は文学、精神分析、宗教、哲学にわたり、ドイツの詩、戦後ドイツ、ホロコーストを扱っている。
著者が言及し、引用もしている「History beyond the pleasure prin-ciple」という題の論文を書いているのは事実だが、この論文を載せている論文集の副題が『Nazism and"the Final Solution"』であることからも推測できるように、その主題は「ホロコースト以後におけるドイツの国家的・文化的アイデンティティー形成の取り組みとジレンマ」(原書p145)であり、フランスの博物館への言及はまったくない。
つまり、著者は、ドイツをフランスに、ホロコーストを戦争に置き換えた上で、サントナーの理論を靖国神社に適用しているのである。
歴史記憶の「取捨選択」や「歪曲」を厳しく批判する著者が、何故、このような「創出」を行ったのか、理解に苦しむ。ただ、間違いなく言えるのは、「研究者は、自らの基準に照らして他者を批判する前に、まず、自らが自らの基準にしたがっているかどうか、そこを厳しく見つめる必要がある」ということだろう。
皇學館大学現代日本社会学部 新田均教授へのレスポンス
国際日本文化研究センター教授 ジョン・ブリーン
新田教授が拙著の書評を書いてくださったこと、光栄に思うし、感謝している。筆者は容赦のない書評をお願いしたし、そのとおり、容赦のない書評をいただいた。ありがたく思っている。
書評はしかし多少バランスに欠けているようにも思う。文章の3分の2も「付論」「靖国:戦後の天皇と神社について」の評価のみにさいてある。それは、もちろん書評者の自由ではあるが。新田教授は、実はこの論文に対して以前にも似たような批判をしたことがある。(Nitta Hitoshi,'And why shouldn't the Japanese PM worship at Yasukuni?'John Breen編, Yasukuni, the war dead and the struggle for Japan's past (Columbia University Press, 2008年、所収論文140−141頁参照)。今回は、多少の肉をつけたことは事実であるが。
問題があるとするならば、それは新田教授の書評が「靖国:戦後の天皇と神社について」に書かれてある私の議論にとり合わないことだと思う。例えば、靖国の慰霊祭が戦没者を無差別的に「英霊」と祭ることによって戦争の痛ましい真実を抹消する効果を生む議論(1)、 遊就館の展示物に敵が不在である事実をめぐる議論、「今日の平和と繁栄が戦没者の尊い犠牲の上にある」とする「礎」言説に対する議論、戦没者を祭る靖国神社が戦後社会の道徳矯正に異常な関心を示すことに問題がある、とする議論などなどである。新田教授は、これらの議論には、どういうわけか取り合わない。
新田教授はさらにサントナーが展開した議論そのものにも背を向ける。サントナーはヨーロッパの戦後の戦争博物館、慰霊施設を調査し、そうした施設による戦争の語りについて刺激的な論考を書いた。結論的には、戦争の語り方は敗北、占領などのトラウマと密接に繋がるものだというのである。筆者は、靖国による戦争の語り方を理解する鍵がサントナーの論考にあるかもしれないと提言をしたのである。
新田教授は、付論以外の章には余り関心を示さないが、それも仕方がない。しかし序説や第六章「神社と祭りの近代:官幣大社日吉神社の場合」についてのご指摘でちょっと気になることが一つあった。それは、鉤括弧付きの「事実」と「創出」という言葉である。この鍵括弧をどう理解したらいいのか分からないが、筆者が史実でないことを述べ、また日本史の理解を妨げるようなことを記述したなら、せっかくの書評なのでそれを指摘してほしかった。
最後に、『神道フォーラム』の読者さん達へのお願いがある。拙著『儀礼と権力 天皇の明治維新』平凡社(2011年)を是非図書館で借りるなり、購入するなりして、読んでいただきたい。その上で、本の議論及び新田教授の書評について是非ともご感想、ご意見を筆者によせてくださるようにお願いしたい。
(1) これについては、筆者が本論で引用する「B級戦犯」でもあった飯田進の極めて重要な発言がある。(ブリーン『儀礼と権力』269−70頁参照。)なお、飯田進『地獄の日本兵:ニューギニア戦線の真相』新潮社2008年、飯田進『魂鎮への道:BC級戦犯が問い続ける戦争』岩波書店2009年を是非参照されたい。どちらも優れた、感動的な著作である。