神道国際学会会報:神道フォーラム掲載 |
マイ・ブック・レビュー : 「祝詞必携」 金子義光氏 |
神職の祝詞に対する考えは区々だが、おおまかには三傾向に別れるようだ。一つはあくまでも自作に徹する自力派。今ひとつは例文を参照する依存派。そしてその折衷派。第三の場合が一般的なのかも知れない。そこで改めて現代の祝詞を見ると、古典祝詞に則って型通りであろうとするか、なるべく願意を表現しようと挑戦するか、であることが解る。 原則的にはいずれも可能だが後者はより難しい。それは古典読解力を必要とするためで、古語や文法に明るくなければならない。となれば若い頃の努力が大きく物を言う。晩学では遅過ぎる。 かくして易きに流れることとなる。それは専ら例文に依存するか、現代語で作ってしまうかである。後者の場合「掛けまくも畏き」とか「恐み恐み」を現代語でどう言うつもりなのか。原義は「心に思うのも恐れ多い」「恐れ慎み」であるが、このまま奏上するには〈字余り〉感が否めない。 日本語は室町時代以降大きく様変りした。従って現代人が奈良・平安語に違和感を覚えるのは自然なことである。しかし信仰や祈りの形が変化し掛けている現代社会で、現代語だけを用いた祝詞が果して成り立つのか。 古典作品がそうであるように、祝詞もまた古語・古意であるところに値打がある。古語でしか表現できない事柄。現代生活が見失おうとしている感覚や信仰姿勢。これは「現代語や外来語を古語に改める」ことよりも遙かに深刻な問題と言ってよい。 今使われている言葉は、じきに使い捨てられたり忘れ去られたりする。流行語がよい例である。短命な若者言葉を挙げてもよい。きちんと伝わらぬ言い回しや聞き手の誤解を招く物言い。現代語は思いのほか脆い。これに言霊の発動を期待するのは甘いとしか言いようがない。 と言う訳で(全く古語によらぬのは稀なのだが)詩人や歌人は巧みに現代語を紡いでいる。となれば神職の祝詞も詩人の心で作るべきだというのが編者の結論である。(本書は小野迪夫氏との共著であるが氏が他界されたので単独で寄稿させて戴いた。) (2600円+税 戎光祥出版 電話03-5275-3361) 金子善光(かねこよしみつ)文学修士。 昭和21年横浜市生まれ。 國學院大學大学院文学研究科神道学専攻博士課程修了。 現職=國學院大學神道文化学部講師・神奈川県神社庁研修所研修講師・同神社振興委員会主任委員。現代神社と実務研究会常務理事・神道宗教学会理事・禮典研究會常務理事・儀礼文化学会運営委員・式内社顕彰会関東支部監事 主な著述=『現代諸祭祝詞大宝典』(共編・国書刊行会刊)・『祝詞作文法』(神社新報社刊)など多数。現在、(三峯神社社報に「やさしい神道の話」を連載中。 |
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